高校世界史の問題演習
令和5年2月26日
ティムール朝・サファヴィー朝・ムガル帝国
※青山学院大学の入試問題を参考に作られています。(すべて半角の数字で入力すること)
次の文章を読み、問1から問6までの設問に答えなさい。
中央アジアでは、14世紀半ば頃、チンギス・ハンの子によって建国された遊牧国家が東西分裂を起こすと、分裂後の西側国家における混乱に乗じて①ティムール朝が誕生した。また、西アジアでは、②タブリーズやスルターニーヤを都としたモンゴル王朝が1353年に滅亡したが、この王朝で成熟した文化が中央アジアに伝播したことによって、トルコ=イスラーム文化が形成された。
(中略)
16世紀になると、イラン地域にサファヴィー朝が誕生し、初代君主であるイスマーイール1世は、遊牧国家の③国内統一を図るために国教を定めたほか、君主の称号としてシャー(王)を採用した。この王朝は、第5代シャーの治世下で最盛期を築き、④内政改革とヨーロッパ諸国との交易・外交、新首都の建設を通じて栄華を誇ったが、18世紀前半にトルコ系王朝によって倒されると、この地域はその後、ロシアとの抗争やイギリスによる半植民地化など、抗争と混乱の時代を迎えることになる。
インド地域では、1526年にインド史上最大のイスラーム国家である⑤ムガル帝国が誕生した。この帝国は17世紀まで、胡椒,染料,火薬,綿織物などをヨーロッパ地域やアジア地域の諸国へ輸出し、その代価として諸国から金や銀を獲得する経済大国として発展した。また、イスラーム教がインド全域に広まり、ヒンドゥー文化の影響を受けたことによって、⑥インド=イスラーム文化が開花した。しかし、18世紀になると宗教対立や諸侯の反乱が拡大するようになり、ムガル帝国は衰退の道を歩んだ。
問1 下線部①のティムール朝に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 中央アジアの大部分を制圧したが、1507年にウズベク族によって滅ぼされた。
2 建国者(初代君主)はトルコ系豪族の出身であり、後に西北インドへ侵入した。
3 建国者(初代君主)はオスマン帝国と戦って撃破し、第4代スルタンを殺害した。
4 第3代君主は遷都を行い、オスマン帝国と親善関係を維持した。
5 ミニアチュールと呼ばれる細密画などの文化が栄えた。
問2 下線部②に関連して、このモンゴル王朝に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 建国者はチンギス・ハンの孫であり、イスラーム教を国教化した。
2 建国者が1258年に滅ぼした王朝は、イスラーム教シーア派を弾圧した。
3 第7代君主は、イクター制の導入や税制の確立など、内政安定を重視した。
4 第7代君主の宰相である歴史家の著書『集史』は、モンゴル史の重要史料である。
5 キプチャク・ハン国とは対立関係に、元朝とは友好関係にあった。
問3 下線部③に関連して、この国教とされた宗教に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 この宗教は、第4代正統カリフとその子孫のみをムハンマドの正当な後継者と認めるイスラーム教分派である。
2 この宗教は、イラン・イラク地域で現在も存続しており、「ムハンマドの言行・慣行」に従う者を意味するイスラーム教分派と対立関係にある。
3 この宗教の分派である十二イマーム派は、第4代正統カリフとその妻の直系12人のみを「真の指導者」とするものであり、国教の主要宗派を構成していた。
4 この宗教の分派であるイスマーイール派は、10世紀にアフリカ東部で建国されたファーティマ朝では国教と定められた。
5 この宗教は、現代のイスラーム教分派では少数派を構成しており、多数派よりも神秘主義的傾向が強く、聖者崇拝が多数派よりも広く行われている。
問4 下線部④に関連して、サファヴィー朝に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 特権階層の遊牧民(キジルバシュ)を弾圧し、人材登用のあり方を見直した。
2 交易上の重要拠点ホルムズ島をスペインから奪回した。
3 アゼルバイジャンとイラクの主要都市をオスマン帝国から奪回した。
4 新首都にはイギリスの東インド会社の商館が建設され、交易が盛んに行われた。
5 建築や美術が著しい発展を遂げ、新首都にはイマームモスクが建設された。
問5 下線部⑤に関連して、この国家の歴代皇帝に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 初代皇帝は、ティムール朝の再建を目指したがウズベク族に敗れ、その後はインドへ進攻し、パーニーパットの戦いでロディー朝を撃破した。
2 第3代皇帝は、統治機構の中央集権化を推進し、人頭税ジズヤを廃止したほか、ラージプート諸王国に対し宥和政策を採用した。
3 第3代皇帝は、すべての官僚を序列化し、位階に応じた騎兵・騎馬の準備を義務付けるという位階制度(マンサブダール制)を導入した。
4 第5代皇帝は、インド=イスラーム文化の最盛期をもたらし、タージ・マハルを造営したが、晩年は第6代皇帝によって幽閉された。
5 第6代皇帝は、厳格なシーア派教徒であり、ヒンドゥー教の弾圧や寺院の破壊を行ったほか、積極的な外征に伴う戦費増大で財政を悪化させた。
問6 下線部⑥のインド=イスラーム文化に関する説明として誤っているものを次の選択肢の中から1つ選んで、記号を答えなさい。
1 ミニアチュールと呼ばれる細密画がイランから伝来し、その後、ムガル絵画とラージプート絵画へ発展を遂げた。
2 ムガル絵画は宮廷絵画で、花鳥や動物を写実的に描いたものが多く、第4代皇帝の治世下ではヨーロッパ絵画の影響も受けた。
3 ラージプート絵画では、ヒンドゥー教における三大神の一つであるヴィシュヌ神の信仰に関わるものが多く題材に使われた。
4 第3代皇帝が著した回想録は、ムガル王家の歴史を題材とする散文学作品であり、初代皇帝が著した回想録と並んで文学史上の傑作と評される。
5 北インドの方言とアラビア語・ペルシア語が融合した言語としてウルドゥー語が誕生し、この言語は現在ではパキスタンの国語となっている。
令和4年11月20日
アフリカ分割
※日本女子大学の入試問題を参考に作られています。
帝国主義時代のアフリカについて述べた次の文章を読み、問1,問2の設問に答えなさい。
19世紀末から20世紀はじめは帝国主義の時代と呼ばれる。列強が世界を植民地化して分割し、列強の支配の下で世界の一体化が進んだ。A本国と植民地・従属国の関係を軸に世界は列強の勢力圏に分かれ、工業の発達した欧米中心国と食糧や原料を供給するアジア・アフリカの周辺国の格差はいっそう広まった。
列強は世界の分割をめぐって国際対立を激化させていき、勢力圏の拡大とその再分配をめぐって争った。帝国主義の時代における世界の分割を象徴するのがアフリカ大陸であった。もともとイギリスの探検家【 1 】がヴィクトリア瀑布を「発見」したが、ナイル川の水源を探索したときに行方不明となり、アメリカ人探検家【 2 】によって救出された。
B1898年には英仏軍がスーダンで対立・衝突して戦争の危機に瀕した。イギリスはエジプトを単独支配してケープタウンまでのアフリカ縦断政策を進めた。他方、フランスはセネガルで鉄道建設を開始して西アフリカや赤道アフリカでの植民地の建設をめざすアフリカ横断政策を進めた。
英仏の対立のほかに、ポルトガルとベルギーによるアフリカ中部をめぐる対立も深刻化した。そのために、1884年にドイツの宰相【 3 】はベルリン西アフリカ会議を開催して、列強によるアフリカ分割のための規則を定めた。ベルギー国王【 4 】はC1885年、アフリカ中部の河川の流域を私領地として設立した。
また植民地獲得競争に出遅れた新興工業国家ドイツもアフリカに植民地主義的な野心を抱き、西アフリカのカメルーンや東アフリカに進出したが、南部アフリカでイギリスと、モロッコでフランスと衝突した。とりわけ、ドイツは1905年、モロッコ事件を引き起こした。この事件はフランスが単独でモロッコを保護領化するのに反対して、Dドイツ皇帝【 5 】がアフリカ北部の港町に上陸して、モロッコを独立国とみなすと宣言してドイツの権益をまもろうとしたものであった。
南部アフリカに関していえば、1814年のウィーン会議でイギリス領になったケープ植民地にはブール(ボーア)人が入植していた。ブールとはオランダ東インド会社が移民入植者を差別的に呼んだ、「百姓」の意味をもつオランダ語であった。ブール人の大部分がオランダ系であったが、一部にはフランス系のユグノーの子孫もいた。ブール人はアフリカ人やマレー系アジア人を奴隷として使用したが、イギリスが奴隷制度を廃止したために、生活基盤を奪われて北への大移動を余儀なくされた。この大移動はグレート・トレックとよばれ1836年から10年以上つづいた。Eブール人は1852年と1854年にそれぞれ二つの国家を建国した。ところが、この両国でF1860年代から1880年代に相次いで鉱脈が発見されると、1890年にケープ植民地の首相となる【 6 】はその鉱脈の採掘権を独占した。また、イギリス植民地大臣の【 7 】は1899年に両国を侵略してブール戦争を開始した。1902年にイギリスが勝利して、1910年に自治領南アフリカ連邦が成立した。
問1 文章中の【 1 】~【 7 】に入れる適切な人名を下記の語群から選び、解答欄に記入しなさい。(全角のカタカナのみ入力すること)
語群
(ア) アムンゼン (イ) ヴィッテ
(ウ) ヴィルヘルム2世
(エ) クック
(オ) グラッドストン (カ) クレマンソー
(キ) ジョゼフ=チェンバレン (ク) スタンリー
(ケ) スコット
(コ) セシル=ローズ
(サ) ディズレーリ (シ) ニコライ2世
(ス) ビスマルク
(セ) フリードリヒ=ヴィルヘルム4世
(ソ) ヘディン (タ) リヴィングストン
(チ) レオポルド1世
(ツ) レオポルド2世
問2 上記の文章中の下線部AからFについての質問に答え、解答欄に記入しなさい。
A 下線部に関して下記の1~4のうちの誤ったものを選び、誤った語句を訂正して、正しい語句を解答欄に書きなさい。(数字や記号は半角で、その他は全角で入力すること)
1.イギリスは1875年にスエズ運河会社の株式半分を買収して、1882年にはオラービーの反乱を機にエジプトを事実上、支配下に置いた。
2.ドイツは1885年にタンザニア・ルワンダなどの東アフリカ植民地を領有し、1891年には直轄領とした。
3.フランスは1888年に紅海からインド洋への入口に位置するアフリカの角のジブチ港を建設し、さらにアフリカ東部に浮かぶマダガスカル島を領有した。
4.アメリカはセオドア=ルーズベルト大統領の時代の1898年、米西戦争を行ない、キューバを独立させて事実上の保護領にし、フィリピン,プエルトリコ,グアムを獲得した。
B この事件は何と呼ばれますか。(全角のみ入力すること)
C この国は当時何と呼ばれましたか。(全角のみ入力すること)
D この港町の名称は何ですか。(全角のみ入力すること)
E この両国の名称を書きなさい。(全角のみ入力すること)
F 何の鉱脈ですか。その鉱物の名前を二つ記しなさい。(全角のみ入力すること)
令和4年8月21日
フランス革命
※関西大学の入試問題を参考に作られています。(すべて全角のカタカナで入力すること)
フランス革命に関連する次の問(1)~問(9)のABの各文について、AとBがともに正しいときには記号アを、Aが正しくBが誤っているときは記号イを、Aが誤っていてBが正しいときには記号ウを、AとBがともに誤っているときは記号エを、記入しなさい。
問(1)
A シェイエスは、『第三身分とは何か』と題するパンフレットを書いて、特権階級を攻撃した。
B 第三身分とは、三部会を構成する聖職者のグループであり、平民出身のシェイエスも聖職者の議員として部会に参加していた。
問(2)
A トマス=ペインはフランス革命と革命原理を擁護するパンフレット『コモン=センス』を執筆した。
B 1789年にヴェルサイユで開かれた三部会では、第三身分議員が憲法制定まで解散しないことを内容とする「球戯場の誓い」を一致して宣誓した。
問(3)
A アメリカ独立戦争に参加したラ=ファイエットは、1789年のフランス人権宣言の起草者として活躍した。
B 自由主義貴族のミラボーは、三部会および国民議会に参加し、立憲主義の立場から国王と議会の調停を図った。
問(4)
A 1789年7月14日にバスティーユ牢獄襲撃事件が起こると、恐怖に駆られた国王ルイ16世と家族は、同年オーストリアへの逃亡を企てたが、ヴァレンヌで逮捕されパリに連れ戻された。
B 王妃マリア=テレジアは、オーストリア=ハプスブルク家の出身であったが、その浪費癖から国民の反感を買い、最後にはギロチンにかけられ処刑された。
問(5)
A 国民議会では、自由主義貴族や富裕ブルジョワジーからなるフイヤン派が主導して立憲君主政の原理に基づく1791年憲法が制定された。
B 国民公会では、急進的な共和主義を唱えるジロンド派によって、主権在民と男子普通選挙権に基づく1793年憲法が採択された。
問(6)
A 保安委員会の主導権を握ったロベスピエールは、ジロンド派を追放して革命独裁を推し進め、マラー,ダントン,ブランキら政敵を処刑した。
B 1794年のテルミドールの反動によって、ロベスピエールは逮捕・処刑され、恐怖政治は終結した。
問(7)
A 革命行進曲として作られたラ=マルセイエーズは、後にフランス国歌となり現在に至っている。
B 国民公会では、度量衡の統一を図るために子午線の長さに基づくメートル法が定められ、グレゴリウス暦にかわって革命暦が導入された。
問(8)
A 1789年10月には、革命の混乱と小麦の不作によってパンの価格が高騰し、パリの女性ら多数がヴェルサイユ宮殿に押しかけるヴェルサイユ行進が起こった。
B 1793年にロベスピエールは、パンをはじめとする食料品や生活必需品の価格統制を目的とする最高価格令を出した。
問(9)
A フランス人権宣言には、「財産所有は不可侵にして神聖な権利である」と書かれており、この条項によって貴族・領主の土地所有、教会の十分の一税などの徴税特権、有力者の奴隷所有や財産所有はすべて保護された。
B フランス人権宣言には、「人間は生まれながらにして自由かつ平等の権利を持っている」と書かれており、これを宣言した立法議会は、地位・身分による差、人種・民族による差、男女の性による差など、あらゆる差別を否定した。
令和4年5月15日
アテネの民主政
※早稲田大学の入試問題を参考に作られています。(すべて全角のみで入力すること)
以下の文章を読み、下記A,Bに答えよ。
数えあげると、アテナイではこれまで11回の体制の変化があった。最初の変化は、太古の時代にイオンとその仲間たちが、アテナイに集まり住むようになった時に起った。この時初めて、ひとびとは4つの部族に分けてまとめられ、それぞれに部族王が任命された。第二は、テセウスの時代の変化であり、かなり大きな国制の改革が行われ、本来の王制から少し外れていくことになった。その後、 a の時代に、初めて法が成文化された。第三は、市民同士の騒乱の後に現れたソロンの体制であり、そこから初めて民主政治の端緒が開かれた。第四は、ペイシストラトスの b 政治の時代である。第五は、ペイシストラトスとその息子たちの b 政治が倒れた後の c による体制であり、ソロンの体制よりも民主的になった。第六は、dペルシア戦争後の体制であり、この時の改革はまだアレオパゴス評議会の監督のもとで行われた。第七の体制は、(中略)エフィアルテスがこのアレオパゴス評議会から政治的実権を奪った政変の後の体制である。この体制のもとでアテナイは、 e たちの活動によって、きわめて多くの政治的失策をおかすことになった。これには当時のアテナイが、f海の支配を行っていたという原因もある。第八は、四百人の体制であり、これに次ぐ第九の体制として、ふたたび民主政治が行われた。(中略)第十一は、フュレーおよびペイライエウスからひとびとが帰還した後の体制である。それ以来、今日まで現在の体制が続いており、大衆がますます多くの職務や権限を手にするようになっている。というのも、民衆はすべてに対する最終決定者となり、自らが実権を握る g の決議と民衆裁判所の判決によって、万事を取り仕切っているからである。
(出典:アリストテレス『アテナイ人の国制』第41章より,一部改変)
A 下記の問い1~4について、最も適切な答えをイ~ニから一つ選び、記号で答えよ。
1 空欄aに当てはまる人名は何か。
イ リュクルゴス ロ レオニダス
ハ ドラコン ニ ミノス
2 空欄cに当てはまる人物が行ったことは何か。
イ 部族制の再編
ロ アルコン制の廃止
ハ 陶片追放制の廃止
ニ ファランクス戦法の開始
3 下線部d中に起ったⓐ~ⓓの戦闘を時系列に並べるとすれば、適切なのはどれか。
ⓐ スパルタの将軍パウサニアスが指揮するギリシア連合軍が、プラタイアでペルシア軍を撃破した。
ⓑ アテナイを中心とするギリシア連合軍の艦隊が、アテナイ西方の海峡(水道)でペルシア艦隊を撃破した。
ⓒ ミルティアデスが指揮するアテナイの重装歩兵軍が、アテナイ北東の地に上陸したペルシア軍を破った。
ⓓ テッサリアを南下し中部ギリシアへ向け進軍するペルシア軍が、ギリシア軍を破り、スパルタ王が戦死した。
イ ⓐ→ⓒ→ⓑ→ⓓ ロ ⓐ→ⓒ→ⓓ→ⓑ
ハ ⓑ→ⓒ→ⓓ→ⓐ ニ ⓒ→ⓓ→ⓑ→ⓐ
4 下線部fを成立させていた軍事同盟の金庫を前454年にアテナイへ移した政治家は誰か。
イ アナクレオン ロ キュロン
ハ テミストクレス ニ ペリクレス
B 下記の問い1~3について、最も適切な答えを記せ。
1 空欄bに当てはまる語句を漢字二文字で記せ。
2 空欄eに当てはまる語句をカタカナで記せ。
3 空欄gに当てはまる語句を漢字二文字で記せ。
令和4年1月30日
黄河文明~春秋戦国時代
※関西学院大学の入試問題を参考に作られています。(すべて半角アルファベットの小文字で入力すること)
次の文中の に最も適当な語を語群から選び、また下線部に関する問いに答え、最も適当な記号1つを選びなさい。
中国最初の王朝とされる①夏の都城はまだ確認されていないが、これに続く②殷は殷墟などの発掘調査により実在が証明された。殷王朝は商を盟主とした連合国家であり、殷王はその連合国家を強大な王権で統治した。
紀元前11世紀になると、殷の連合国家の一員であった③周が殷を滅ぼし、新たな王朝を開いた。周も殷と同様に連合国家であったが、周代前期に大規模に④封建を行った点に特徴がある。
長く安定を保った周であるが、前8世紀になると内紛などにより勢力が衰え、都を東方の イ に遷した。東遷以後の周は東周とも称され、その前半が⑤春秋時代、後半が戦国時代と呼ばれる。春秋時代には、有力諸侯が多くの諸侯を招集して同盟を結び勢力を拡大したが、諸国間の抗争はなお絶えることがなかった。
戦国時代に入り他国併合のための戦争が激化した結果、中国は⑥戦国の七雄と呼ばれる強国が並び立つ状態に突入した。これら強国は、出身国・身分を問わず有為の人材を集めて国内改革をすすめ、他国と覇を競った。
やがて、七雄のひとつである秦が、⑦諸子百家のなかから⑧法家を登用して国力を増し、東方の6カ国を次々に征服、政(後の始皇帝)の治世中に中国を統一し強盛をほこった。しかし、苛酷な政策は人々の不満を招き各地で反乱が勃発、秦による統一は約15年という短さで崩壊を迎えたのだった。
[語群]
イ
a.鎬京 b.洛邑 c.臨淄 d.薊
[問い]
① 夏王朝を建てたと伝えられる人物は誰か。
a.堯 b.舜 c.禹 d.桀
② 殷王朝に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.鉄製農具の普及により農業生産が高まった。
b.「帝」と呼ばれる最高神を崇拝した。
c.殷王は甲骨で神意を占った。
d.創建したのは湯王であるとされる。
③ 周に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.殷の西部、渭水地域におこった。
b.牧野の戦いで殷の紂王を破った。
c.周王は天子と称した。
d.東胡の侵入を受け、都を攻略された。
④ 封建に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.周王の一族や功臣、有力氏族の首長が世襲の諸侯とされた。
b.諸侯は卿・大夫・士と序列づけられた。
c.諸侯は貢納や軍役の義務を負った。
d.諸侯は諸邑を封土として与えられた。
⑤ 春秋時代に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.有力諸侯が、尊王攘夷を名目に勢力を拡大した。
b.斉の桓公が管仲を登用し、商工業の発展に努めた。
c.晋の文公は長い亡命生活を経て即位した。
d.屈原の詩歌を多数収録する『詩経』がまとめられた。
⑥ 戦国の七雄に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.楚の風俗・言語は黄河中流域の中原とは異なっていた。
b.田氏の支配する斉では、製塩業が盛んであった。
c.魯は孔子の出身地として知られる。
d.韓・魏・趙は晋を三分して成立した。
⑦ 諸子百家に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.墨子は兼愛と非攻を説いた。
b.孫武と呉起はともに兵家として知られる。
c.公孫竜は陰陽五行説を集大成した。
d.許行は万民平等に農耕すべきと説いた。
⑧ 法家に関する記述として、誤りを含むものはどれか。
a.蘇秦は君主による民の教化を容認した。
b.商鞅は秦の孝公に仕え変法を断行した。
c.法家思想の大成者である韓非は韓の王族出身である。
d.李斯は秦の丞相として中央集権化を進めた。