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この問題でおさえておきたいこと

アテネの民主化の過程は参政権の拡大に注目!
ペルシア戦争は過程とその後の民主化への影響をおさえる!

解答
A
1 ハ   2 イ   3 ニ   4 ニ
B
1 僭主
2 デマゴーゴス(デマゴーグ)
3 民会

解説

A

1 「初めて法が成文化された」という記述から、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、ドラコンと判断できます。ドラコンの立法により、平民に法内容が公開され、貴族の恣意的な法解釈が打破されました。

2 空欄cに当てはまるのはクレイステネスです。ペイシストラトスの死後に僭主政治をおこなったヒッピアスの後に登場した彼は、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、陶片追放や10部族への再編、その10部族から抽選で選ばれた各50人ずつの評議員で構成された五百人評議会の設置などをおこないました。

3 ⓐはプラタイアの戦い、ⓑはサラミスの海戦、ⓒはマラトンの戦い、ⓓはテルモピュライの戦い(テルモピレーの戦い)についての記述です。テルモピュライの戦い(テルモピレーの戦い)でスパルタ軍が全滅したことでアテネは海軍を拡充し、サラミスの海戦での勝利につながりました。

よって、起こった順に並べるとⓒ(前490年)→ⓓ(前480年)→ⓑ(前480年)→ⓐ(前479年)となります。ちなみに、これらの戦いがおこなわれた当時のペルシア王は、ⓒのマラトンの戦いのときはダレイオス1世ですが、それ以外はすべてクセルクセス1世です。

4 この軍事同盟とはデロス同盟のことです。この同盟が組まれた後のアテネの政治家で考えると解きやすかったと思います。ペリクレスはデロス同盟の金庫(財務局)をアテネに移し、その資金をアテネの復興に利用しました。

また、ペリクレスは、両親ともアテネ生まれの男子に市民権を認めるという市民権法を前451年に成立させました。

B

1 空欄bはペイシストラトスの政治体制を示すことばなので、「ポイントのまとめ」より僭主政治の「僭主」が入るとわかります。ペイシストラトスと僭主政治はセットにして覚えておくとよい用語といえます。

2 空欄eの後に「多くの政治的失策をおかすことになった」とあることがヒントとなります。このデマゴーゴス(デマゴーグ)ということばから、うその情報を意味する「デマ」ということばが生まれました。

3 最終決定者となった民衆が実権をにぎって決議ができる場所というわけですから、「ポイントのまとめ」にあるとおり、最高決議機関である「民会」とわかります。民主的な政治体制ではありますが、現在の民主政と異なる点もあります。重要なポイントなので、それも「ポイントのまとめ」で確認しておきましょう。

ポイントのまとめ

・アテネの民主政へのあゆみ

初期は王政であったが、しだいに貴族政治へと移行
9人の貴族出身のアルコン(執政官)で統治

その後、マッサリアビザンティオンネアポリスなどの植民市建設やそれによる貨幣経済の発達により商工業が発展

武器の価格が下がって平民も武具を買えるようになり、平民による重装歩兵部隊が軍隊の主力に
→平民も参政権を要求して貴族と対立

前7世紀末 ドラコンの立法
従来の慣習法を成文化(アテネ最古の成文法)
法による秩序の安定化をはかる

前6世紀初め ソロンの改革
財産の額に応じて平民に参政権を与える財産政治を実施
債務を帳消しにして債務を負った市民を奴隷にすることを禁止

貴族と中小農民双方に不満
ペイシストラトスが平民の支持を背景に非合法に政権を奪い、独裁政治(僭主政治)を開始
追放した貴族の土地を平民に分配、商工業の発展を保護

ペイシストラトスの死後、クレイステネスによる改革
僭主の出現を防ぐため、陶片追放(オストラキスモス)の制度をつくる
(全部で6000票以上集まったとき、最多得票者を10年間国外に追放する)
貴族政治の基盤であった血縁的な4部族制を廃止し、居住区に基づく10部族制を創設

・ペルシア戦争とアテネの民主政

アケメネス朝ペルシアの支配が小アジア(イオニア地方)のギリシア人植民市を圧迫
ミレトスを中心としたイオニア植民市が反乱

前492年 ペルシア戦争が勃発

サラミスの海戦で活躍した無産市民の発言権が強まる

ペリクレスの指揮のもと、アテネの民主政が完成
民会を最高決議機関として多数決で採決
将軍職などを除く官職は抽選で選出、抽選で選ばれた陪審員による民衆裁判所が設置

※現代の民主政と違う点

・ポリスの没落

アテネはペルシアの再来襲に備えてほかのポリスとデロス同盟を結成、ほかのポリスを支配
スパルタなどはそれに反発、ペロポネソス同盟を結成

ペロポネソス戦争が勃発
戦争中にペリクレスが死亡、デマゴーゴス(デマゴーグ)による扇動で民主政治が堕落、衆愚政治におちいる

スパルタが勝利、その後もポリス間の抗争はつづき、一時テーベが有力に
戦争の長期化で土地を失った市民が没落、重装歩兵の維持が難しくなり傭兵の使用が一般化=ポリス社会の崩壊

前338年 カイロネイアの戦いが勃発
マケドニア王国(国王はフィリッポス2世)がアテネ・テーベの連合軍を破り、ギリシア(スパルタを除く全ポリス)を支配