この問題でおさえておきたいこと
ヨーロッパのどの国がどの地域を植民地にしたかをおさえる!
特にイギリスの縦断政策とフランスの横断政策が重要!
解答
問1
【 1 】…(タ) 【 2 】…(ク)
【 3 】…(ス) 【 4 】…(ツ)
【 5 】…(ウ) 【 6 】…(コ)
【 7 】…(キ)
問2
A 4,訂正はセオドア=ルーズベルト→マッキンリー
B ファショダ事件
C コンゴ自由国
D タンジール
E トランスヴァール共和国,オレンジ自由国
F 金,ダイヤモンド
解説
問1
すべて「ポイントのまとめ」を参照すれば解くことができます。ここでは、「これをキーワードにすれば答えを導くことができます」ということを簡潔にまとめたいと思いますので、その考え方を確認してみてください。
【 1 】…イギリスの探検家であること、ヴィクトリア瀑布を「発見」したこと、行方不明となってその後救出されたことがヒントになります。
【 2 】…アメリカ人の探検家であることと【 1 】にあたる人物(リヴィングストン)を救出したことを手がかりにするといいでしょう。
【 3 】…アフリカ分割のための規則を決めるためのベルリン会議を主宰したのはビスマルクです。
【 4 】…「ベルリン会議」「ベルギー国王」「私領地」をキーワードにすると導くことができるでしょう。
【 5 】…「モロッコ事件を引き起こした」ことと「ドイツ皇帝」からヴィルヘルム2世を導くことができます。
【 6 】…「ケープ植民地の首相」しかヒントになりそうな語句がありませんが、これだけでもセシル=ローズという人物名を導くことができます。
【 7 】…イギリスの植民地大臣である人物で、ブール戦争、つまりブール人の国々を侵略した人物を答えるわけなので、ジョゼフ=チェンバレンです。
問2
A 1:この文の内容は正しいです。エジプトを「事実上」保護したとあるのは、形式上はオスマン帝国の領土だったためです。第一次世界大戦が始まって、エジプトは正式に保護国とされました。
2:この文の内容も正しいですが、ルワンダは難関レベルの知識でしょう。ドイツが植民地としていましたが、第一次世界大戦後にベルギーの植民地となりました。ベルギー統治下でフツ人とツチ人の対立があおられ、独立後にフツ人とツチ人との間で凄惨な内戦となりました。
3:「ポイントのまとめ」にもあるとおり、フランスはジブチやマダガスカルを領有しました。この文の内容も正しいです。
4:米西戦争を行ない、フィリピン,プエルトリコ,グアムを領有したアメリカの大統領はマッキンリーです。セオドア=ルーズベルトは「棍棒外交」で積極的なカリブ海政策を進め、パナマ運河の永久租借権を獲得した大統領です。
B 「ポイントのまとめ」にもあるとおり、この事件はファショダ事件です。この事件ではフランスがイギリスに譲歩しましたが、当時フランスはドイツと対立していたため、新たな敵を作ることを避けるためというのがその理由でした。
C 「ポイントのまとめ」を参照してください。
D この下線部の少し前に「1905年」とありますから、これは第一次モロッコ事件のことを指しています。その舞台となった港町は「ポイントのまとめ」にもあるとおり、タンジールです。ちなみに、第二次モロッコ事件は1911年で、その舞台はアガディールです。
E 「ポイントのまとめ」のとおり、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国です。ちなみに、ほかにもナタール共和国という国もつくられていました。
F 難関大学の入試問題レベルになると、トランスヴァール共和国では金、オレンジ自由国ではダイヤモンドが採掘されたという区別までする必要となることもあります。そのレベルを念頭に置いているのであれば、おさえておくとよいでしょう。
ポイントのまとめ
・列強のアフリカ進出のきっかけ
欧米人によるアフリカの探検がすすめられる
例:イギリス人のリヴィングストン、アメリカ人のスタンリー(リヴィングストンを救出)
↓
資源の供給地や市場としてのアフリカの魅力に気づく
↓
列強は競ってアフリカに進出し、植民地化をすすめる
↓
1884年 ベルリン会議開催(主宰はドイツのビスマルク)
以下のことを決定
- ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつ(先占権)
- コンゴ地域をベルギー国王レオポルド2世の私領地と認め、コンゴ自由国として承認
(のちにベルギー領コンゴとなる)
・イギリスのアフリカ進出
1)アフリカ北部
1875年 ディズレーリ内閣がスエズ運河会社株を買収して内政干渉
1882年にはウラービーの反乱を鎮圧
→エジプトを事実上の保護下に
1881年にスーダンに侵入、マフディー派のムハンマド=アフマドがイギリス軍に抵抗(マフディーの反乱)
1882年にはウラービーの反乱を鎮圧
→イギリス軍のゴードンが戦死するも、反乱を鎮圧して征服
2)アフリカ南部
ウィーン議定書でケープ植民地(もともとはオランダの植民地)を獲得したことにより、イギリス人の入植が始まると、ケープ植民地で暮らしていたオランダ人(ブール人)は圧迫され、北上
ブール人はトランスヴァール共和国やオレンジ自由国などの国々を建国
↓
1890年 セシル=ローズがケープ植民地首相に就任、アフリカ縦断政策(アフリカ北部と南部を植民地にしてその後南北を連結しようとする政策)を主張
↓
トランスヴァール共和国やオレンジ自由国で金・ダイヤモンドが採掘されると、イギリスは植民地相ジョゼフ=チェンバレンの指揮のもと、ブール人諸国を侵略(南アフリカ戦争)
→イギリスが勝利して両国を併合、南アフリカ連邦が成立してイギリスの自治領に
3)その他の地域
1890~1894年 ローデシア(現在のジンバブエ)を征服
また、フランスの譲歩により、ウガンダやケニアも支配下に
※アフリカ縦断政策でおさえたケープタウンとカイロ、そしてインドのカルカッタの3都市を結ぶイギリスの植民地支配策を3C政策といいます。
・フランスのアフリカ進出
1)アフリカ北部
アルジェリアを占領後、チュニジアを保護国にし、さらにサハラ砂漠に進出
→ジブチやマダガスカルとの連結をめざすアフリカ横断政策を進める
2)イギリスとの衝突
1898年 ファショダ事件
アフリカ縦断政策をとるイギリスと、スーダンのファショダで衝突
↓
フランスが譲歩して解決
イギリスと英仏協商を結び、イギリスはエジプトで、フランスはモロッコで、それぞれ優越権をもつことを認める
↓
モロッコを保護国化
3)その他の地域
1883年 仏領ソマリランド(ジブチ)成立
1896年 マダガスカルを領有
・ドイツのアフリカ進出
1880年代半ば、カメルーン、東アフリカ、西南アフリカなどを領有
↓
ドイツはモロッコの領有もねらい、フランスと対立する
↓
1905年 第1次モロッコ事件
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が自ら艦隊を率いてタンジールに上陸し、フランスのモロッコ進出に反対
↓
フランスの提案で国際会議が開催
英仏協商によりイギリスはフランスを支援、ドイツは孤立したため、フランスのモロッコ進出を黙認
↓
1911年 第2次モロッコ事件
先住民族の反乱をきっかけにドイツが突然アガディールに軍艦を派遣
↓
イギリスがフランスを支援
ドイツは仏領コンゴの一部を獲得するかわりに、フランスのモロッコ領有を認める
・イタリアのアフリカ進出
ソマリランド(英仏とともに分割)とエリトリアを獲得
エチオピアに進出するも、アドワの戦いで敗退
↓
1911~1912年 伊土戦争(イタリア=トルコ戦争)
オスマン帝国領の北アフリカ獲得をねらう
イタリアが勝利し、トリポリ・キレナイカ(現在のリビアにあたる地域)を獲得
・その他の重要事項
ポルトガルはアンゴラ、モザンビーク、ギニアを領有
スペインはモロッコの北部を領有
こうして、20世紀初頭の時点で独立を維持したのはエチオピア帝国とリベリア共和国のみとなった