この問題でおさえておきたいこと
ティムール朝、サファヴィー朝はどういう経緯で繫栄し、どういう文化を持っていたかをおさえる!
ムガル帝国は異教徒に対する政策を中心におさえる!
解答
問1 3 問2 1 問3 4
問4 2 問5 5 問6 4
解説
問1 たしかにティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国を破り、そのスルタンであるバヤジット1世をとらえましたが、殺害はしていません。よって、3の選択肢が誤りです。
ティムール朝については、難関大学の入試問題レベルであれば、「ポイントのまとめ」にあること以外に、第3代皇帝のシャー=ルフが都をヘラートに設けたことをおさえておくとよいでしょう。
問2 「このモンゴル王朝」とはイル=ハン国のことです。イル=ハン国を建国したのはフラグですが、イスラーム教を国教化したのは彼ではなくガザン=ハンですので、1の選択肢が誤りです。
イル=ハン国については、ハイドゥの乱で元朝を支持してキプチャク=ハン国と対立したこと、ほかのイスラーム王朝と同じくイクター制を導入したこと、ガザン=ハンによりイラン人宰相のラシード=アッディーンが登用されて『集史』が編纂されたことをおさえておきましょう。
問3 サファヴィー朝の国教である十二イマーム派はシーア派穏健派でした。シーア派分派であるイスマーイール派はシーア派の過激派であり、これを国教にしたファーティマ朝はアフリカ西部(マグリブ(日の没する地方)とよばれる地域)で建国されましたので、4が誤りです。
ちなみに、2の選択肢にある「ムハンマドの言行・慣行」に従う者を意味するイスラーム教分派とは、スンナ派のことをあらわすこともピンときたいところですね。
問4 「ポイントのまとめ」にあるとおり、ホルムズ島はスペインからではなくポルトガルから奪回しました。イギリスの東インド会社の支援をうけて奪回しました。
サファヴィー朝は、アッバース1世の治世下では、アゼルバイジャンとイラクの主要都市をオスマン帝国から奪回しました。
問5 第6代皇帝とはアウラングゼーブのことですが、彼はスンナ派教徒でした。シーア派教徒ではありませんので、5の選択肢が誤りです。
問6 初代皇帝バーブルの回想録『バーブル=ナーマ』は、バーブルが著したトルコ語散文の傑作です。しかし、第3代皇帝アクバルの回想録『アクバル=ナーマ』はペルシア語で書かれたもので、著者はアブル=ファズルです。つまり、皇帝自身が著したものではありませんので、4の選択肢が誤りです。
ポイントのまとめ
・ティムール朝の支配
14世紀中ごろ 中央アジアのチャガタイ=ハン国が東西に分裂
西チャガタイ=ハン国出身のティムールがティムール朝を建国
↓
西トルキスタンを統一し、首都サマルカンドを復興、サマルカンドは繁栄する
東トルキスタンにも進出、イル=ハン国滅亡後のイラン・イラクも併合
↓
1402年 アンカラの戦いでオスマン帝国軍に勝利し、バヤジット1世を捕虜にする
明への遠征の途中でティムールは病死
↓
ウズベク族の南下、侵入によりティムール朝は滅亡
・ティムール朝の文化
ティムール朝の成立により、イラン人とトルコ人の世界が統一
→イラン=イスラーム文化が中央アジアに伝えられ、トルコ=イスラーム文化として発展
例:イラン文学やミニアチュール(細密画)が伝来
また、ウルグ=ベクがサマルカンド郊外に天文台を建設し、天文学や暦法が発達した
・サファヴィー朝の支配
ティムール朝の衰退後の16世紀、神秘主義教団の長イスマーイール1世がイランでサファヴィー朝を建国(首都:タブリーズ)
国内統一のため、シーア派の十二イマーム派を国教とした
↓
アッバース1世の治世で最盛期を迎える
- ポルトガル人をホルムズ島から追い出す
- イスファハーンを首都とし、「イスファハーンは世界の半分」といわれるほどに繁栄させる
- 中央集権体制の確立
・サファヴィー朝の文化
イスファハーンにモスクが建設される(アラベスク模様のタイルを使ったペルシア風建築)
建築・美術・工芸などのイラン芸術もさかえる
・ムガル帝国の支配
ティムールの子孫であるバーブルが、ティムール朝再興に失敗し、アフガニスタンから北インドに侵入
1526年 パーニーパットの戦いでロディー朝(デリー=スルタン朝最後の王朝)に勝利、ムガル帝国を建国
↓
第3代皇帝アクバルの治世
- マンサブダール制で官僚制を整備
(官位に応じて維持すべき騎兵や騎馬の数を定め、それに応じた給与を与える制度) - 新首都としてアグラを建設
- 土地測量を実施し、徴税する制度を導入
- ヒンドゥー教に対する融和政策により帝国の安定を図る…
アクバル自身がヒンドゥー教徒と結婚、非ムスリムに対する人頭税の廃止など
↓
第5代皇帝シャー=ジャハーンの治世
- 都をデリーに戻す
- 自分の死んだ妻をまつるためのタージ=マハルを建設
↓
第6代皇帝アウラングゼーブの治世
- デカン高原を征服し、帝国の領土を最大に
- ヒンドゥー教に対する融和政策を放棄…
非ムスリムに対する人頭税を復活、ヒンドゥー教寺院を破壊
↓
非ムスリム勢力が反発、自立の動きが活発に
例:西インドにヒンドゥー国家のマラータ王国が成立、西北インドではシク教徒が反乱して強大化
・ムガル帝国の文化
アクバルの融和政策より少し前の15~16世紀、インドでは次のような人物が宗教の差異を克服しようとした
- カビール…
不可触民への差別を批判、人類は平等であると主張 - ナーナク…
ヒンドゥー教とイスラーム教を融合して、カーストを否定するシク教を創始
アクバルの融和政策はこの時勢に乗ったといえ、この融和政策の結果、独自のインド=イスラーム文化が誕生した
- ウルドゥー語…
ムガル帝国の公用語であるペルシア語とインドの地方語が融合して誕生、現在のパキスタンの国語 - ムガル絵画…
宮廷で描かれたミニアチュール(細密画)をもととした絵画 - ラージプート絵画…
ヴィシュヌ信仰やそれに関わる庶民的な題材を扱う絵画(ムガル絵画より庶民的) - インド様式とイスラーム様式が融合したタージ=マハルの建設
- 『バーブル=ナーマ』『アクバル=ナーマ』(どちらも皇帝の回想録)などの文学