この問題でおさえておきたいこと
政体の変遷と政体ごとの業績の内容をおさえる!
特に国民議会と国民公会による改革や改革中に発布された憲法の性格は重要!
解答
問(1) イ 問(2) エ 問(3) ア
問(4) エ 問(5) イ 問(6) ウ
問(7) ア 問(8) ア 問(9) エ
解説
問(1) Aの内容は正しいです。Bについては、第三身分は平民のグループであり、聖職者のグループは第一身分です。ちなみに、シェイエスは聖職者の身分ではありましたが、三部会には第三身分の立場として参加しました。
問(2) Aに書かれた『コモン=センス』はアメリカ独立戦争中にアメリカ独立の必要性を訴えるために書かれたものです。この思想がフランス革命にも影響を与えました。Bに書かれた「球戯場の誓い」についてですが、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、宣誓されたのは三部会にてではなく国民議会にてです。
問(3) AもBも両方とも正しいです。ラ=ファイエットはアメリカ独立戦争に義勇兵として参加したことはおさえておくべきポイントです。そして、ミラボーは立憲君主政派として国民議会の成立にかかわった中心人物で、国王との妥協をはかりました。
問(4) Aに書かれているのはヴァレンヌ逃亡事件についてですが、バスティーユ牢獄襲撃は1789年でヴァレンヌ逃亡事件は1791年であり、同年のできごとではありません(バスティーユ牢獄襲撃からいろいろなできごとがあり、それを経てのヴァレンヌ逃亡事件ですので、年号を覚えていなくても対応できます)。
また、オーストリアへの逃亡もバスティーユ牢獄襲撃で恐怖を抱いたわけではなく、国王と議会の調停役だったミラボーが死去したことがきっかけと言われています。
そして、Bに書かれた王妃は、正しくはマリー=アントワネットです。マリア=テレジアはオーストリア=ハプスブルク家の女性君主で、外交の一環としてフランスのブルボン家と手を結び、娘のマリー=アントワネットをフランスに嫁がせました。
問(5) Aの内容は正しいです。Bについてですが、ジロンド派は「ポイントのまとめ」にもあるとおり穏健共和政派です。急進的共和政派はジャコバン派です。
問(6) Bの内容は正しいです。Aにあるマラーはロベスピエールによって処刑されたのではなく、ジロンド派支持者によって暗殺されました。また、ブランキは19世紀フランスの社会主義者でフランス革命には関係ありません。
問(7) AもBも両方とも正しいです。「ポイントのまとめ」にもあるとおり、ラ=マルセイエーズはオーストリアと戦う義勇軍の間で歌われ、現在のフランスの国歌となっています。また、「ポイントのまとめ」のとおり、メートル法や革命暦の導入は国民公会期(ジャコバン派の独裁政治)のことです。
問(8) これもAB両方とも正しいです。「ポイントのまとめ」を参照してください。
問(9) Aについては、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、国民議会による封建的特権の廃止によって教会の十分の一税は廃止されました。農奴制も廃止されましたので、Aに書かれた特権が保護されたというのは誤りです。
Bについては、フランス人権宣言は立法議会ではなく国民議会によって宣言されました。また、男女の性による差別まで否定したというわけではありませんでした(このことは国民公会の選挙が男子普通選挙であり、女性を含まなかったことからもうかがえます)。
ポイントのまとめ
・フランス革命前
第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が特権身分としてふるまい、第三身分(平民)は政治参加ができないという旧制度(アンシャン=レジーム)の社会
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旧制度への不満増大を背景に、理性的な考え方を推奨する啓蒙思想が広がり、さらにアメリカ独立革命が起こって市民の自由への欲求が強まる
シェイエスが「第三身分とは何か」を発表し、国民の意思はフランスのほとんどである第三身分が代表すると主張
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国王ルイ16世が財政難を解決するためにテュルゴーやネッケルを登用
ネッケルは特権身分への課税を提案
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特権身分の要求により三部会が開催
しかし、特権身分と第三身分が対立し、まとまらず
・国民議会期のフランス
1789年6月 第三身分は三部会を離脱、国民議会を結成
憲法制定までは決して解散しないことを誓約(球戯場(テニスコート)の誓い)
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国王や貴族は武力で弾圧をはかり、ネッケルを罷免→国民は反発
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1789年7月14日 パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃、暴動が全国に拡大
1789年8月 国民議会が封建的特権の廃止を決議、これにより領主裁判権や十分の一税は廃止
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1789年8月 国民議会はラ=ファイエットが起草したフランス人権宣言を採択、すべての人間の自由・平等、主権在民(国民主権)、私有財産の不可侵を定めた
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1789年10月 物価高騰に苦しむパリの主婦たちがヴェルサイユ宮殿に押しかけ、国王一族をパリのテュイルリー宮殿に連行(ヴェルサイユ行進)
国王はフランス人権宣言を承認
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1791年6月 国王が王妃のマリー=アントワネットとオーストリアに逃亡しようとして失敗(ヴァレンヌ逃亡事件)→国王は国民からの信頼を失う
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1791年9月 1791年憲法制定(フランス最初の憲法)
立憲君主政、財産による制限選挙などを定める
・立法議会期のフランス
憲法を制定したので国民議会は解散
制限選挙実施により立法議会が成立
立憲君主派(フイヤン派)とジロンド派(共和政を求める穏健派)が対立→ジロンド派内閣の成立
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1792年 ジロンド派内閣がオーストリアに宣戦(フランスに敵対的な王妃の故国だったため)
苦戦が続き、全国の民衆が義勇軍を組織、このとき義勇軍の中からラ=マルセイエーズが歌われる
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1792年 義勇軍がサンキュロットとよばれるパリの下層市民とともにテュイルリー宮殿を襲撃(8月10日事件)
立法議会は王権を停止、フイヤン派は追放され、男子普通選挙実施を決定して立法議会は解散
・国民公会期のフランス
1792年9月 男子普通選挙実施により、国民公会が成立
マラー,ダントン,ロベスピエールなどのジャコバン派(急進的な共和派)が主な勢力に
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国民公会は王政廃止、共和政樹立を宣言=第一共和政が成立
1793年 ルイ16世処刑
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ルイ16世の処刑に反発したイギリス(首相はピット)の呼びかけにより第1回対仏大同盟を結成
=フランスは全ヨーロッパの敵に
フランス内部でも農民反乱が相次ぐ
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内外の混乱に対応するためジャコバン派がジロンド派を追放、独裁政治をはじめる
→やがて公安委員会の指導権をにぎったロベスピエールによる恐怖政治へと変化
ジャコバン派の独裁政治により、以下の政策が実施
- 1793年憲法制定
主権在民、男子普通選挙などを定める(実際は施行されなかった) - 封建地代の無償廃止
農奴制を撤廃し、小土地所有農民の形成をめざす - 最高価格令の制定
物価高騰への対応の一環、買占めの禁止などを規定 - 革命暦の制定
グレゴリウス暦を否定、新しい暦を導入 - メートル法の制定
- 徴兵制の実施
- 反対派を処刑・粛清
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1794年 テルミドールのクーデタ(テルミドール9日のクーデタ)発生
ロベスピエールが捕らえられ、処刑
ジャコバン派独裁による恐怖政治が終わる