高校日本史の問題演習
令和5年1月15日
大名・朝廷・寺社の統制
※京都女子大学の入試問題を参考に作られています。(記号を答える問題は半角の数字のみを入力、それ以外は全角のみで入力すること)
次の文章を読んで、あとの問に答えよ。
江戸幕府は、17世紀に全国統治の体制を整えたが、その基本姿勢は法度に基づく統治であった。幕府は大坂夏の陣の直後、諸大名等に対し(ア)居城以外の城郭の破却を命じ、その後、家康の手で作られた武家諸法度を将軍秀忠の名で公布(元和令)し、諸大名等を厳しく統制した。武家諸法度は、将軍の代替わりごとに発布され、その内容は17世紀半ばには変化が見られた。秀忠の元和令では、第一条は「文武 1 の道、専ら相嗜むべき事」と、文武の中でも「武」重視の姿勢が見られ、(イ)居城修理を届出制とし、新規築城を禁止した。家光の寛永令では、諸大名等に法度の遵守を厳命し、国元と江戸に交代で詰めさせることを義務づけ、大名の妻子は江戸に住むよう強制した。家綱は寛文令の公布に際し、 2 の禁止を命じ、主人の死後は主人の家に奉公すること、つまり家の存続を重視する主従の関係を示した。綱吉の天和令では、第一条を「文武 3 を励まし、礼儀を正すべき事」と改めた。これは、たんに武断から文治への転換を明確に示しただけでなく、家光・家綱の時代に旗本に対して出された 4 に見られた条文を武家諸法度に取り込むことにより、旗本に対する規範を大名にも求めたのであり、大名を旗本同様、徳川氏の家中に位置づけ、将軍独裁体制の強化をねらったものであった。
朝廷に対しては、元和元年(1615)に(ウ)禁中並公家諸法度を制定し、朝廷統制の基準を示したが、その後、幕末まで改訂されることなく幕府の朝廷支配の根幹となった。その第一条は「天子諸芸能の事、第一御 5 也」とされ、天皇の行動を規制し、天皇が政治に介入することを間接的に否定したものである。また、幕府は京都所司代による朝廷監視とともに、関白および幕府との交渉を担う 6 の権限を強化し、また(エ)僧侶への紫衣勅許を制限するなど朝廷統制の基本的枠組みを確立した。
江戸幕府は、1612年に直轄領に禁教令が出され、(オ)キリスト教に対する迫害が本格化することとなった。1641年には日本は鎖国状態となり、徹底的なキリスト教の禁圧が行われた。
寺社に対しては、徳川家康は関ヶ原合戦後から段階的に、諸宗派の大寺院に対して法度を出し、寛文5年(1665)には諸宗派を越えて、仏教寺院の僧侶全体を統制するため 7 法度を出した。同年には、神社や神職に対して 8 法度を制定した。
問1 空欄 1 ~ 3 に適する語句を、下の語群からそれぞれ一つ選べ。
〔語群〕
① 両道 ② 芸能 ③ 弓馬
④ 剣槍 ⑤ 殉死 ⑥ 切腹
⑦ 仇討 ⑧ 遁世 ⑨ 忠義
⑩ 忠孝 ⑪ 仁義 ⑫ 忠信
問2 空欄 4 ~ 8 に適する語句を入れよ。
問3 下線部(ア)~(オ)について、以下の問に答えよ。
(1)下線部(ア)について、この法令を何というか。
(2)下線部(イ)について、この規定に違反し改易となった大名は誰か。下の①~④の中から一つ選べ。
① 福島正則 ② 加藤清正
③ 浅野長矩 ④ 高山右近
(3)下線部(ウ)について、この法度の起草に関わった禅僧は誰か。
(4)下線部(エ)について、この規定に対する幕府の処分に抗議し流罪となった僧は誰か。下の①~④の中から一つ選べ。
① 江月宗玩 ② 一休宗純
③ 沢庵宗彭 ④ 隠元隆琦
(5)下線部(オ)に関連して、幕府の宗教統制に関する文として正しいものを、下の①~④の中から一つ選べ。
① 幕府は、キリスト教とともに一向宗不受不施派の信仰を禁じた。
② 幕府は、神道を容認したので神職は檀那寺の檀家から除外された。
③ 長崎で始まった絵踏は、島原の乱前から実施されていた。
④ 陰陽道は邪教として、幕府により禁止された。
令和4年10月9日
太平洋戦争への道
※中央大学の入試問題を参考に作られています。(すべて全角で入力すること)
次の文章を読み、下記の設問に答えなさい。
一方、ドイツは日本に軍事同盟を結ぶことを提案した。しかし、①日本が満州国の国境をめぐってソ連と対立を深めているさなかに、突如として独ソ不可侵条約が結ばれたため、当時の 1 内閣は総辞職した。 1 内閣に続く②阿部信行・米内光政の両内閣はいずれも短命に終わり、その後、近衛文麿がふたたび軍部をはじめ各界の期待を受けて内閣を組織した。第2次近衛内閣は、アジアの資源確保のため、東アジアに新秩序を建設し、それによって国家防衛の体制を確立する方針を決定した。また、第2次近衛内閣は、フランスとオランダがドイツに敗北し占領下におかれたのを機会に、東南アジアへ南下する南進政策を推し進めるとともに、まだ参戦していないアメリカをけん制するために、ドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を締結した。
③三国同盟の締結以降、アメリカは対日姿勢をこれまでよりいっそう硬化させた。悪化した日米関係を打開するために、1941年4月以降、ワシントンで駐米大使 2 ・来栖三郎と国務長官ハルとの間に日米交渉がおこなわれた。他方で、 3 外相は日ソ中立条約を締結した。同年6月にドイツが突如ソ連に侵攻して独ソ戦争が始まると、翌月、④日本は南方への進出と、ソ連との戦争にそなえることを決定した。日本の南進政策に対して、米英中蘭が対日経済封鎖を強めると、危機感をつのらせた軍部は、こうした対日包囲網に対抗するには開戦しかないと主張した。
1941年9月6日の御前会議で、日米交渉の継続と、10月上旬までに日米交渉がまとまらない場合、対米(英・蘭)開戦にふみきることが決定された。しかし、アメリカとの交渉が進まないまま10月を迎え、近衛内閣は退陣し、陸軍大将 4 が首相に就任した。軍部はすでに開戦を決意し、その準備を着々と進めていた。11月5日の御前会議は、12月初頭の開戦を決意した。⑤アメリカ側は、11月26日に最終提案をおこなったが、交渉成立は絶望的だった。こうして、12月1日の御前会議は開戦を決定した。
問1 文中の空欄 1 ~ 4 に入るもっとも適切な氏名を漢字で答えなさい。
問2 下線部①に関連するものにはイ,そうでないものにはロを解答しなさい。
a 盧溝橋事件
b 張鼓峰事件
c ノモンハン事件
問3 下線部②に関連する説明文として正しいものにはイ,誤っているものにはロを解答しなさい。
a 阿部信行内閣は、激変した欧州の情勢に対応できず、欧州の情勢は「複雑怪奇」と声明して総辞職した。
b 阿部信行内閣は、ドイツとの軍事同盟には消極的で、ヨーロッパの戦争には不介入の方針をとり続けた。
c 米内光政内閣は、当初大戦不介入の方針をとっていたが、ヨーロッパにおけるドイツの快進撃を好機として、ドイツとの提携強化と南進を決定した。
問4 下線部③に関連する説明文として正しいものにはイ,誤っているものにはロを解答しなさい。
a 日本に通商航海条約の破棄を通告した。
b 在米日本資産を凍結した。
c 石油の対日輸出を禁止した。
問5 下線部④に関連する説明文として正しいものにはイ,誤っているものにはロを解答しなさい。
a 関東軍特種演習の名目で兵力を満州とソ連の国境に動員してソ連侵攻の機をうかがった。
b 戦略物資の開発・調達のために、南部仏印に進駐し、航空・海軍基地を設定した。
c 天皇出席の御前会議で、南進も北進もおこなえるように準備するという「帝国国策遂行要領」を決定した。
問6 下線部⑤の提案にあたるものにはイ,そうでないものにはロを解答しなさい。
a 満州をのぞく中国からの日本軍の撤退
b 蔣介石政権と汪兆銘政権の合流を条件としたアメリカの日中和平斡旋
c 仏印からの日本軍の撤退
令和4年7月10日
飛鳥文化
※関西学院大学の入試問題を参考に作られています。
次の文章を読んで、1から7までの設問に答えなさい。答えはすべて頭書の記号を書きなさい。
6世紀後半から7世紀前半にかけて開花した飛鳥文化の代表的な建築物として a や b をあげることができる。多くのすぐれた仏像も見られるが、とくにc飛鳥大仏や中宮寺の d は有名である。このころe暦やf絵の具・紙・墨がもたらされ、文化の発展に大きく寄与した。また仏教文化の興隆に多大な功績をあげたg聖徳太子のような人物もあらわれた。
1.空欄aとbに相当する語句の組み合わせとして正しいものを下記より選びなさい。
ア.大官大寺・川原寺 イ.川原寺・薬師寺
ウ.薬師寺・法隆寺 エ.法隆寺・法興寺
2.下線部cの制作者である鞍作鳥の他の代表作を下記より選びなさい。
ア.法隆寺夢殿救世観音像
イ.法隆寺金堂釈迦三尊像
ウ.法隆寺金堂薬師如来像
エ.法隆寺百済観音像
3.空欄dに相当する仏像の名前を下記の中から選びなさい。
ア.百済観音像 イ.半跏思惟像
ウ.薬師如来像 エ.釈迦三尊像
4.空欄dと同時代・同様式の木像仏を所蔵する寺院名を下記より選びなさい。
ア.法起寺 イ.法輪寺
ウ.広隆寺 エ.興福寺
5.下線部eに関して、暦法をもたらした僧の名前を下記より選びなさい。
ア.裴世清 イ.観勒
ウ.旻 エ.曇鸞
6.下線部fに関して、大陸から絵の具、紙、墨などの製法を伝えた僧の名前を下記から選びなさい。
ア.曇徴 イ.恵慈
ウ.鑑真 エ.玄櫛
7.下線部gに関して、聖徳太子が著述した『三経義疏』のなかに含まれていない経典を下記より選びなさい。
ア.華厳経 イ.法華経
ウ.勝鬘経 エ.維摩経
令和4年4月10日
分国法
※同志社大学の入試問題を参考に作られています。
次の史料(抜粋)を読んで、下記の設問に答えよ。
史料
一 c ・ 両国の輩、或わたくしとして他国よりよめ[嫁]を取、或ハむこ[婿]に取、むすめ[娘]をつかハす事、自今以後これを停止し畢んぬ。
一 不入の地の事、代々の判形を
【設問a】この条文は、中部地方の一部を支配領域とし、この地域に対して、所領安堵権・軍事指揮権・裁判権などを一元的に掌握し、領土と人民を支配した戦国大名が出した分国法である。この法令は、今川 と呼ばれているが、この空欄に入る語句を漢字で記せ。
【設問b】この条文は、今川氏親によって、1526年に制定された33条からなる分国法の一部であるが、1553年には氏親の息子によって21条の追加がなされている。三河の制圧からさらに西方への進出の途上、織田信長に急襲され、討ち取られた、この息子の名は何というか。漢字2字で、記せ。
【設問c】下線部cには今川氏のこの当時の領国名が入る。正しいとされる国名の組み合わせを、以下の国名群から1つ選び、その番号を記入せよ。(半角数字のみ入力すること)
1.駿河・伊豆 2.遠江・伊豆
3.駿河・遠江
【設問d】設問bの織田信長との戦いは、1560年、尾張国で行なわれたが、勝利した信長は東海道における勢力を急速に増大させただけではなく、その後尾張・美濃・伊勢を足がかりに上洛し、天下統一の基礎を築き上げた。この戦いの呼称となった主戦場の地名を漢字3字で、記せ。
【設問e】領国支配の規準としての分国法は、この時代の多くの戦国大名によって制定された。以下に掲げる(ア)~(オ)の分国法を制定した大名の領国名を、下記の1~5の支配国名群からそれぞれ選び、その番号を記入せよ。(半角数字のみ入力すること)
(ア) 早雲寺殿二十一箇条 (イ) 相良氏法度
(ウ) 大内氏掟書 (エ) 六角氏式目
(オ) 長宗我部氏掟書
[国名群]
1.肥後 2.周防 3.相模
4.土佐 5.近江
令和3年12月30日
運輸・交通史
※早稲田大学の入試問題を参考に作られています。(すべて全角で入力すること)
運輸・交通史に関する次の文章を読んで、問に答えなさい。
日本社会の発展は、運輸・交通、すなわち人や物の移動手段の発達とともにあった。原始社会においてすでに広範な交易がおこなわれていたことが、黒曜石や玉類などの遺物の分布から明らかになっている。a古代国家の形成とともに道路が都と地方とを結ぶ形で整備されていくが、当初は情報連絡を主眼においたものであり、直線で最短距離を通るよう敷設されているものが多い。人力での道路輸送には限界もあり、遠方からの物の輸送においては水上交通が大きな役割を果たした。沿岸・内海の舟運が盛んに行われたほか、遣隋使や遣唐使の派遣も行われた。一方陸路については、鎌倉時代、京と鎌倉を結ぶ東海道が主幹線となり、幕府は鎌倉―京都間に宿を置いて駅制を整備した。室町時代になると大名や国人の居館・城砦などを結ぶ道路網も形成されていく。
遠距離の物資の輸送は、人力では難しく、車や動物を用いた運搬が行われ、動物としてはb牛と馬が多く用いられた。馬は輸送以外にも情報伝達においても使われ、戦国大名が公用旅行者の便をはかるために宿駅を設置し、その宿駅周辺の農民等に A 役を賦課する A 制が行われ、これはその後江戸幕府にも受け継がれた。海上輸送については、中世より廻船とよばれる商船による交易が内海を中心に行われていたが、c江戸時代になると太平洋・日本海にも広く廻船による海運が発達する。
明治以後、輸送・交通手段は劇的な変化を遂げる。明治新政権成立後、大隈重信・伊藤博文の両名によってd鉄道の敷設が主張され、早くも1872年には開通する。自転車が輸入されるようになったのも明治初期である。また B のように文明開化期の日本で発明された乗物も存在する。 B の普及により駕籠は急速に衰えた。明治の終わり頃になると、一部の富裕者層が自動車を輸入・使用しはじめるが、国産車が本格的に製造されるようになるのはe1930年代以降のことであり、一般庶民にまで広く普及するようになるのはf高度経済成長期以降である。
〔問〕
1 下線aに関連して、古代国家において「七道」と呼ばれる行政区画が敷かれたが、その七道として誤っているものはどれか。2つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 東海道 イ 南海道 ウ 北海道
エ 西海道 オ 中山道
2 下線bに関連する説明として誤っているものはどれか。1つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 牛は食用としてはあまり一般的ではなく、牛肉食が広く行われるのは明治以降である。
イ 奈良時代の貴族階層は牛乳を煮詰めてつくる乳製品の蘇を摂取した。
ウ 貴族は牛に車を引かせた牛車を乗用として用いていた。
エ 鎌倉時代以降牛を利用した農耕は西日本ではほとんど行われなくなった。
オ 牛や猿・蛙などの動物を擬人化した『鳥獣戯画』が平安末期に描かれた。
3 空欄Aに入る語句を、漢字で記入しなさい。
4 下線cに関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 蝦夷地・東北の物資を、松前・日本海沿岸・下関を経由して上方に運ぶ松前船が盛んに往来した。
イ 江戸時代初期に堺商人によって樽廻船が創始され、上方と江戸の間を回漕した。
ウ 樽廻船は十組問屋と提携し、酒荷を上方から江戸へ輸送して菱垣廻船を圧倒した。
エ 江戸の商人河村瑞賢は、諸藩による海運整備の動きの高まるなか、東廻り・西廻り両航路を改良・整備した。
オ 南海道を通じて上方から江戸にもたらされる物資は「下り物」とも呼ばれた。
5 下線dに関連する説明として、正しいものはどれか。1つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 最初の鉄道は有楽町―横浜間に敷設され、「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれて人気を博した。
イ 1881年、外国資本により日本最初の鉄道会社である日本鉄道会社が設立された。
ウ 1886年頃より民営鉄道ブームが起こり、九州鉄道や山陽鉄道など、各地に民営鉄道が建設された。
エ 1906年に鉄道国有法が制定され、すべての鉄道は国有化された。
オ 蒸気機関車による鉄道のほか、レールの上を馬車が走る「乗合馬車」も各地に開通した。
6 空欄Bに入る語句を、漢字で記入しなさい。
7 下線eの時代に関する説明として、誤っているものはどれか。1つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 政党に代わって軍部が台頭し、満州国の建国や華北分離工作など中国大陸への侵略が進められていった。
イ 二・二六事件で高橋是清蔵相が暗殺されると、軍事費の支出に歯止めがかからなくなった。
ウ 青年将校・右翼による暗殺やクーデタ事件が相次ぎ、二・二六事件以後は特にテロが盛んになった。
エ 鮎川義介の日産コンツェルンは、傘下に日産自動車を設立するなど、軍需・重化学工業を中心に急成長した。
オ 南満州鉄道株式会社は、鉄道以外も含む幅広い事業への投資を行い、コンツェルンと称される規模に拡大した。
8 下線fの時代に関する説明として、正しいものはどれか。1つ選び、該当する記号を答えなさい。
ア 1950年代後半より実質経済成長率15パーセントを超える時期が続き、技術革新・設備投資が大きく進んだ。
イ 経済成長により1964年に日本はOECDに加盟、資本自由化の促進を義務付けられた。
ウ 経済成長の過程で第二次産業の就業比率が大幅に高まったが、第三次産業の就業比率は伸びなかった。
エ 高度経済成長のなかで株式や土地への投資が盛んに行われ、いわゆる「バブル景気」が生じた。
オ 「夢の超特急」と呼ばれた新幹線が開発され、東海道・山陽新幹線、東北・上越新幹線などが営業を開始した。