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この問題でおさえておきたいこと

日本の政策とその結果のアメリカによる経済制裁、そして日米交渉とその失敗という流れを、第2・3次近衛内閣における政治を中心におさえよう!

解答
問1
   1   …平沼騏一郎      2   …野村吉三郎
   3   …松岡洋右      4   …東条英機
問2
a…ロ   b…イ   c…イ
問3
a…ロ   b…イ   c…ロ
問4
a…ロ   b…イ   c…イ
問5
a…イ   b…イ   c…ロ
問6
a…ロ   b…ロ   c…イ

解説

問1
   1    独ソ不可侵条約締結により総辞職したのは平沼騏一郎内閣です。「ポイントのまとめ」にも説明がありますが、平沼騏一郎については「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉も重要です。

   2    「ポイントのまとめ」のとおり、日米交渉にあたったのは野村吉三郎です。ちなみに、来栖三郎は東条内閣のもと野村吉三郎の補佐として日米交渉に派遣された人物です。

   3    「ポイントのまとめ」のとおり、日ソ中立条約を締結したのは松岡洋右です。日独伊三国同盟にアメリカをけん制するためにソ連を加えた四国協商を構想しましたが不可能になり、日ソ中立条約を締結しました。ちなみに、松岡洋右は国際連盟脱退を通告した日本全権代表であることも重要なポイントです。

   4    「ポイントのまとめ」のとおり、1941年に近衛内閣が総辞職した後に東条英機内閣が組閣されました。近衛内閣総辞職後、内大臣の木戸幸一の推挙により東条英機が首相に決定されました。

問2
盧溝橋事件は北京駐兵中の日本軍と中国の国民政府軍が偶発的に衝突し、日中戦争の原因となった事件のことであり、国境紛争でソ連と対立して起こった事件ではありません。

ちなみに、「ポイントのまとめ」にあるとおり、張鼓峰事件は第1次近衛内閣、ノモンハン事件は平沼内閣のときに起こった事件であることは、おさえておくべきポイントです。

問3
「欧州情勢は複雑怪奇」と総辞職したのは平沼騏一郎内閣ですから、aは誤りです。また、「ポイントのまとめ」にあるとおり、阿部信行内閣はドイツとの同盟に消極的で、ヨーロッパの大戦には不介入の方針をつらぬきましたので、bは正しいです。

また、米内光政内閣も阿部内閣と同様、大戦に不介入の方針をとりました。しかし、「ドイツとの提携強化と南進」を決定したのは第2次近衛内閣ですから、cは誤りです。

問4
aは1939年7月の平沼騏一郎政権下での制裁ですが、三国同盟締結は1940年9月の第2次近衛政権で実施されたので、この制裁は同盟締結より前のことです。この制裁の背景には、中国大陸における日本の占領地域で、列強の権益が日本によって侵害されたことがありました。

bとcはいずれも、1941年7月の南部仏印進駐に対するアメリカからの経済制裁であり、三国同盟締結より後のことです。よって、bとcについては正しいといえます。

問5
日本は独ソ戦争でのドイツの快進撃を見て、もしソ連がドイツに敗れることがあればただちに日本はソ連に宣戦布告し、シベリアを奪おうと計画しました。これがaの関東軍特種演習として兵力を満州に結集させた目的です。

また、bに関連することですが、南部仏印進駐は第3次近衛内閣、北部仏印進駐は第2次近衛内閣のときであることは要チェックです。

cについては少し難しかったかもしれませんが、正しくは「帝国国策遂行要領」ではなく「帝国国策要綱」です。「帝国国策遂行要領」とは、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、日米交渉の期限を10月上旬とし、交渉失敗の場合は開戦にふみこむことを決めたものです。

問6
下線部⑤の提案とはハル=ノートのことです。ハル=ノートでは中国からの無条件全面撤退が求められたので、「満州をのぞく」としているaは誤りです。また、汪兆銘政権の否認も求められていましたので、蔣介石政権との合流もありえません。よって、bも誤りです。

そして、ハル=ノートでは仏印からの全面撤退も求められましたから、cは正しいです。

ポイントのまとめ

・太平洋戦争に至る過程

1)第1次近衛文麿内閣(1937年6月~1939年1月)

1938年 張鼓峰事件
満州国とソ連の間の国境不明確地帯である張鼓峰で、日本軍とソ連軍が衝突した事件

日ソ関係悪化
ドイツはソ連に加えて英仏を仮想敵国とする軍事同盟を日本に提案

これらの問題の処理に自信がなく、第1次近衛内閣は総辞職

2)平沼騏一郎内閣(1939年1月~1939年8月)

国外で2つの事件が発生

ほかに、中国における権益や市場の獲得をねらうアメリカは、中国で勢力を拡大させる日本を警戒
→アメリカが日本に日米通商航海条約の破棄を通告

国際情勢の複雑さに対応する自信を喪失、「欧州情勢は複雑怪奇」という声明を残して総辞職

3)阿部信行内閣(1939年8月~1940年1月)

1939年9月 ドイツがポーランドに侵攻、英仏がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦勃発
内閣はドイツとの軍事同盟締結を回避し、世界大戦不介入の方針

4)米内光政内閣(1940年1月~1940年7月)

阿部内閣の世界大戦不介入の方針を継承

立憲民政党議員の斎藤隆夫が、議会で日中戦争を批判する反軍演説をおこない、軍部の圧力により議員を除名
また、軍事同盟締結を推進する陸軍が大臣の推薦を拒否したため総辞職

5)第2次近衛文麿内閣(1940年7月~1941年7月)

ドイツにならって国民を総力戦体制に導くための運動である新体制運動を展開

新体制運動に期待する軍部にこたえ、近衛文麿が再び組閣
大東亜共栄圏」(中国・東南アジアを欧米の侵略・搾取から解放して日本を中心とした共存共栄の構想)を発表

2つの政策により日米関係が悪化

アメリカは航空機ガソリンやくず鉄の対日輸出を禁止

日米戦争を避けるために次の2つを実施

ドイツが独ソ不可侵条約をやぶって独ソ戦争が開始
日ソ中立条約のねらいははずれ、南進政策の継続と対ソ戦の準備が決定、関東軍特種演習の名目で兵力を満州に結集

※第2次近衛内閣は、1940年10月に全政党を解散させて大政翼賛会を結成、国民統制のために下部組織として町内会・部落会・隣組を組織もしました。これにより、国民統制はさらに強化されました。

6)第3次近衛文麿内閣(1941年7月~1941年10月)

対米強硬派の松岡洋右を除くために第2次近衛内閣は総辞職

1941年7月 日本軍は南部仏印に進駐

アメリカは在米日本資産を凍結、対日石油輸出も禁止
イギリス・オランダもアメリカに同調

軍部は「ABCD包囲陣」(アメリカ・イギリス・中国・オランダによる対日経済封鎖)をはねかえすには戦争しかないと主張
帝国国策遂行要領が作成され、日米交渉の期限を10月上旬とし、交渉失敗の場合は開戦にふみこむことを決定

期限の10月上旬をむかえても日米交渉まとまらず
→妥協を主張する近衛文麿と開戦を主張する陸相の東条英機が対立、近衛内閣は総辞職

7)東条英機内閣(1941年10月~1944年7月)

1941年11月 アメリカ側からハル=ノートが日本に提示
中国・仏印からの撤退や三国同盟破棄、満州国や汪兆銘政権の否認などを求められる(=満州事変以前の状態への復帰を要求され、交渉失敗)

1941年12月1日 日米交渉失敗により、開戦決定
1941年12月8日 日本陸軍はイギリス領マレー半島に上陸、日本海軍はハワイの真珠湾に奇襲攻撃して米英に宣戦布告