高校日本史の問題演習
元寇の襲来
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。
チンギス=ハンやその後継者たちにより統一されたモンゴル民族は中国を中心にユーラシア大陸に広く大帝国を建国した。この帝国は国号を元と定め、首都をa長安とした。
この国は朝鮮のb高麗などを服属させていき、日本にも降伏を勧告した。日本はこれを拒否したため、元は武力でもって日本を支配しようと決意する。これによる襲来が元寇である。
日本の幕府側は、元の侵攻に備えて、御家人などにc日本国総追捕使という軍役を課して北九州沿岸の防備をはかることが制度化された。そのきっかけとなったのは、1274年に元は対馬・壱岐に侵攻していったことであり、これに始まった戦いをd文禄の役という。この戦いで、①日本の武士団は元軍の集団戦法や「てつはう」に苦しんだが、勇猛に戦っていった。その後、大風雨が襲い、元軍の船は大破した。
この役の後、元軍の再来に備え、博多湾にe石塁が築かれた。その予想どおり、1281年には、2度目の元軍の襲来となる②弘安の役が起こった。しかし、これも暴風雨により元軍は退却を余儀なくされた。
日本はこうして、元からの支配を免れることができたのである。しかし、③幕府としては元軍の襲来からの備えをまだ継続させざるを得なかったことは当然であろう。
(1)上の文章の□a~eのうち、誤っているものが3つある。その誤っている箇所の記号を答え、正しく書き直しなさい。
(記号については上からアルファベット順になるように、半角で入力すること)
(2)下線部①について、元軍との戦いでの活躍を『蒙古襲来絵巻』として残させた御家人の名前を答えなさい。
(3)下線部②について、元軍はこのとき二手にわかれて日本に侵攻した。そのうち、元に支配された南宋の人々によって構成された軍を何というか答えなさい。
(4)下線部③について、1293年に西国防備と九州統治の強化のため、博多に設けた軍事・行政・裁判の処理機関を何というか答えなさい。
鉄砲・キリスト教の伝来
次の文章を読んで後の問いに答えなさい。
15世紀末以降、富を蓄えたポルトガルやスペインはアジアに進出し始めた。1543年には、ポルトガル人は( あ )島に漂着し、彼らにより鉄砲が伝えられた。この武器は、当時の武将たちの戦法などに大きな影響を与えることとなり、戦国大名の中には、ポルトガル人や①スペイン人との貿易に積極的になる者も現れるようになった。
1549年には、( い )という宣教師が鹿児島でキリスト教を伝えた。この宗教は日本国内で広がりを見せ、大名の中には洗礼を受けてキリスト教に入信した( う )大名まで現れるようになった。とくに、②大友義鎮・有馬晴信・大村純忠は、ローマ教皇に少年使節を派遣したほどであり、この少年使節は③天正遣欧使節とよばれている。
(1)上の文章の( あ )~( う )をうめなさい。
(2)下線部①について、彼らが日本にはじめてやってきた都市を答えなさい。
(3)下線部②について、彼が領主だったのは現在の都道府県でいうとどこの都道府県にあたるか答えなさい(「府」や「県」もふくめて書くこと)。
(4)下線部③について、派遣をすすめた宣教師の名前と、この使節の正使の名前をそれぞれ答えなさい。
古代の文化
※高崎経済大学の入試問題を参考に作られています。
次の設問にこたえなさい。
(1)『日本書紀』の編者を記しなさい。
(2)『続日本紀』についで律令国家が編纂した史書は何か。
(3)応神天皇の治下に渡来してきたという弓月君を祖とした氏族を次から1つ選びなさい。(半角で入力すること)
1.西文氏 2.高麗氏 3.蘇我氏 4.橘氏
5.中臣氏 6.秦氏 7.東漢氏 8.和気氏
(4)渡来系技術者集団であり、高級絹織物の製造をもって大王家に奉仕した「部」とは何か。
国風文化
次の文の下線部ア~スについて、正しければ○を、誤っていれば正しく書き直しなさい。
(1)平安初期に、漢字をもとにかな文字が作られ、その影響で、国風文化では、国文学が発展した。たとえば、ア在原業平の恋愛談を中心に描いた『伊勢物語』や、土佐守であったイ紀貫之が著した、日本最初のかな日記であるウ『蜻蛉日記』がある。また、女性文学もさかんになり、たとえば、一条天皇の皇后であるエ彰子に仕えたオ清少納言は、『枕草子』という随筆集を書いた。
(2)国風文化がさかんになったころは、社会不安が広がっており、これが背景となって浄土の信仰が広まった。この時代に浄土の信仰を広めるために活躍した人として、六波羅蜜寺を創建したカ空也や、キ『拾遺往生伝』を著した源信(恵心僧都)、念仏の功徳で往生をとげたと信じられた人々の伝記である『日本往生極楽記』を著したク慶滋保胤などがいる。
(3)芸術面でも国風化の影響が強くみられる。書道の面では、ケ小野道風・コ藤原定家・藤原行成の三蹟が活躍した。彫刻面では、サ定朝が作成したと考えられている平等院鳳凰堂阿弥陀如来像が代表的なものである。彼は、仏師が各部分を製作し、それらを一つにまとめあげるシ一木造という製造方法を完成させて、阿弥陀如来像の大量生産を可能にした。ちなみに、平等院鳳凰堂は、1053年にス藤原基経によって建立された寺院である。
1930年代前半の政治史
次のA~Iの文のうち、誤っているものをすべて選び、記号で答えなさい。
A 柳条湖事件に関して、犬養毅内閣は不拡大方針を発表したが、現地軍は軍事行動を拡大した。
B 1932年に日本人僧侶が殺害されたことを口実に、上海事変がひきおこされた。
C 日本軍は満州の主要地域をほぼ占領し、溥儀を執政として満州国を建国した。
D リットン調査団の報告を受け、国際連盟は日本軍の撤退を勧告したが、日本はこれを拒否した。
E 井上日召を中心に結成された右翼団体が、血盟団事件を引き起こし、民政党の団琢磨を暗殺した。
F 犬養毅が五・一五事件で暗殺されたことにより、政党内閣は終わった。
G 1931年に犬養毅内閣は、金輸出再禁止を実行し、金本位制を放棄した。
H 京都帝国大教授の矢内原忠雄が、著書『刑法読本』などで自由主義的な学説を唱えて免職される事件が起きた。
I ニ・ニ六事件を受けて、岡田啓介内閣は軍の要求を受け入れて、軍部大臣現役武官制を復活させた。