この問題でおさえておきたいこと
戊戌の変法は洋務運動との違いに着目!
辛亥革命はきっかけや結果だけでなく、組織された団体や袁世凱が政権をとって以降の流れも注意!
解答
問1
ア …康有為
イ …光緒
ウ …武昌
エ …臨時大総統
オ …モンゴル(外モンゴルでもOK)
カ …ダライ=ラマ13世
問2
名称…戊戌の政変 中心人物…西太后
問3(例)
扶清滅洋をかかげてヨーロッパ資本の鉄道や教会、商社などを襲撃し、宣教師やキリスト教徒を排撃した。(48字)
問4(例)
科挙の廃止、新軍の育成などで近代化を図り、立憲君主制に向けて憲法大綱を発表して国会開設を公約した。(49字)
問5(例)
孫文から臨時大総統の地位を譲り受ける条件で、宣統帝を退位させて清朝を滅ぼし、中国を共和制にした。(48字)
解説
問1 ア ~ エ は「ポイントのまとめ」の説明を参考にすれば何が入るかがわかるかと思いますので、ここでは残り2つの空欄について解説します。
革命によって清朝が打倒されると、中国周辺部でも自立をめざす動きがあらわれました。しかし、中華民国の圧力により、内モンゴルは中華民国領とされ、外モンゴルだけが自治を認められることとなりました。その後、1924年にアジア最初の社会主義国であるモンゴル人民共和国が成立しました。
一方、チベットでは中華民国の圧力を排してチベット人による支配がなされていきました。ダライ=ラマ13世が亡命から戻って独立を主張し、軍隊の創設や官僚機構の整備が進められて独立国家の形態が整えられていきました。
問2 「ポイントのまとめ」を参照してください。
問3 半植民地化を進める西洋諸国に対する清の民衆が起こしたのが仇教運動であり、そのなかでも大規模なものだったのが義和団事件でした。よって、解答としては仇教運動の具体的な中身をまとめるということになります。
教会や鉄道などヨーロッパ資本でつくられたものの襲撃や破壊、キリスト教宣教師などへの襲撃などを軸に記述するとよいでしょう。義和団は北京の外国公使館を包囲までしたので、それを記述してもよいでしょう。
義和団は扶清滅洋というスローガンをかかげていたことも特徴ですが、あくまでこの問題で答えなければいけないことは「排外的行動」の内容ですので、このスローガンについては字数の余裕があればふれる程度でいいでしょう。
解答のチェックポイント
- 宣教師などキリスト教に関係する人物を襲撃したことにふれているか
- 教会や鉄道など、ヨーロッパ資本で建てられたものを襲撃したことにふれているか
- その他、義和団がおこなった行動の内容、もしくは扶清滅洋というスローガンのどちらかにふれているか
問4 この「新政」というのは光緒新政のことなので、「ポイントのまとめ」にある光緒新政の内容を50字以内でまとめて記述すればじゅうぶんな解答になります。
ちなみに、光緒新政とは光緒帝の治世下でおこなわれた改革のことを指しますので、光緒帝が死去した後になされた、軍機処の設置や責任内閣制の導入については、特にふれる必要はないでしょう。
解答のチェックポイント
- 近代化政策をおこなったことを述べているか
- 科挙の廃止など近代化政策の具体的な内容にふれているか
- 立憲君主制をめざしたことを述べているか
- 憲法大綱の発表など立憲君主制をめざしたことがわかる具体的政策にふれているか
問5 袁世凱と革命派との取引の内容は「ポイントのまとめ」にもふれられているとおりです。よって、「清朝を倒すための宣統帝の退位」と「袁世凱の臨時大総統就任」を軸にして記述することとなります。「共和制」という語句は、清朝が倒れてからの中国の政治体制を指すものとして使えばよいでしょう。
ちなみに、袁世凱は第一次世界大戦のころに日本から二十一カ条の要求を提出され、山東半島のドイツ権益を日本が継承することを認めるよう要求された人物でもあります。あわせて確認しておきましょう。
解答のチェックポイント
- 宣統帝が退位することとなったことを述べているか
- 宣統帝の退位により清朝が倒され、共和制になったことを述べているか
- 袁世凱が臨時大総統に就任したことを述べているか
- 臨時大総統の地位は孫文から譲られたものであることにふれているか
ポイントのまとめ
・日清戦争後の清朝
日清戦争に敗北し、列強による中国分割が進む
↓
戊戌の変法
康有為・梁啓超らが光緒帝を説得し、変法自強をかかげて日本にならった立憲君主制をめざした改革をおこなう
↓
戊戌の政変
西太后など改革反対派が光緒帝を幽閉、康有為・梁啓超などは日本に亡命
=改革は失敗
※洋務運動と戊戌の変法の違い
洋務運動 |
戊戌の変法 |
|
当時の皇帝 |
同治帝 |
光緒帝 |
中心人物 |
曾国藩・李鴻章など漢人官僚 |
康有為・梁啓超など |
内容 |
中国の伝統的な倫理などを根本に持ちつつ西洋の学問や技術だけを取り入れる(中体西用) |
日本にならって立憲君主制の政治体制をめざす |
結果 |
日清戦争の敗北により失敗があらわになる |
戊戌の政変により挫折 |
・排外運動の激化
キリスト教の布教が認められると宣教師が清の内地に入る
↓
強引な布教活動に民衆が反発、仇教運動がさかんになる
↓
義和団事件が発生
扶清滅洋(清をたすけ、外国を滅ぼす)をかかげた宗教的武術集団である義和団が鉄道・教会・商社を襲撃、北京にある外国公使館を包囲
↓
西太后ら清朝政府も義和団を支持
イギリス・日本・ロシアなど8カ国の連合軍が共同出兵して対処
↓
1901年 北京議定書を締結
外国軍隊が北京に駐兵することを認め、中国の半植民地化が進む
↓
近代化へむけ、宮廷主導で改革をおこなう(光緒新政)
- 1905年 科挙の廃止
- 1908年 日本の大日本帝国憲法を模範にした憲法大綱を発表、国会開設を公約
(日本の立憲君主制をめざす) - 西洋式軍隊の新軍を育成
↓
増税を必要としたり中央集権化が進んだりしたため、民衆が反発
・辛亥革命と清朝の滅亡
孫文が清朝打倒をめざす運動を始めていく
1894年 華僑を中心として興中会をハワイで組織
1905年 革命をめざす諸団体を結集させて中国同盟会を東京で組織
↓
孫文は三民主義をかかげ、革命運動を指導
- 民族の独立(満州人による王朝である清を打倒し、漢人の国家を建てる)
- 民権の伸長(王政による独裁ではなく共和制の国家を建てる)
- 民生の安定(貧富の差を解消する)
↓
清朝による民間鉄道国有化に反対する暴動が四川で発生する
1911年 四川の暴動鎮圧を命じられた軍隊が革命側とともに武昌で蜂起(=辛亥革命(第一革命)開始)
↓
南京で中華民国建国を宣言
孫文が臨時大総統に就任
↓
清朝の軍人である袁世凱が革命派と取引、皇帝の宣統帝(溥儀)を退位させる(=清朝の滅亡)
そのかわり孫文から臨時大総統の地位を譲り受ける
↓
袁世凱による独裁が強まり、孫文らは中国国民党を組織
1913年 中国国民党が挙兵し、第二革命開始
袁世凱政府はこれを弾圧、正式に大総統になる
↓
孫文は日本に亡命し、中華革命党を組織
袁世凱は自分が皇帝になるために帝政復活宣言
1915年 帝政復活に反対する運動が雲南で起こる(第三革命開始)
↓
袁世凱が病死
袁世凱におさえられていた有力軍人(軍閥)が各地で抗争を始める