この問題でおさえておきたいこと
2回起こった革命の背景、成立した政権を確認し、レーニンがそれらにどう関わったかをおさえる!
ソ連の経済政策の移り変わりにも注意!
解答
問1
(1)…a (2)…b (3)…b (4)…e
(5)…a (6)…c (7)…c (8)…e
(9)…c (10)…d (11)…e
問2
(12) b (13) d
(14) b (15) d
解説
問1
(1) ペトログラードはもともとピョートル1世がペテルブルク(サンクト=ペテルブルク)として建設した都市です。第一次世界大戦により敵国であるドイツ語の読み方をきらい、ロシア語の読み方であるペトログラードに改められました。
(2) ニコライ2世は日露戦争にふみきった皇帝で、第1次ロシア革命では十月宣言によりドゥーマ(国会)の開設を約束したということもおさえておくべきでしょう。また、皇太子時代には日本で大津事件(滋賀県大津で暴漢に襲われた事件)に遭遇した人物でもあります。
(3) 「ポイントのまとめ」にあるとおり、レーニンは四月テーゼを発表しました。即時停戦と「すべての権力をソヴィエトへ」と主張し、臨時政府の指導性を否定しました。
(4) 「ポイントのまとめ」を参考にすると、この空所に入るのは憲法制定議会です。与えられた選択肢にはそれがありませんので、答えはeとなります。
(5) 「ポイントのまとめ」にあるとおり、ボリシェヴィキはロシア共産党に改称しました。
(6) ロシアがドイツと結んだ第一次世界大戦の講和条約はブレスト=リトフスク条約です。ちなみに、ラパロ条約はドイツがソ連を承認した条約、サン=ステファノ条約は露土戦争の講和条約としてロシアとオスマン帝国が締結した条約、ネルチンスク条約はロシアと清の間で締結された国境協定の条約です。
(7) ロシアはオーストリア軍との戦いで捕らえたチェコの兵士を「チェコ軍団」としてロシア軍のなかに再編成していました。資本主義国はそのチェコ兵を救出することを口実にシベリアに出兵しました。
(8) 「ポイントのまとめ」を参考にすると、この空所に入るのは赤軍です。与えられた選択肢にはそれがありませんので、答えはeとなります。
(9) 「ポイントのまとめ」にあるとおり、革命の反対者などを取り締まるために設置されたのはチェカです。
(10) 「ポイントのまとめ」を参考にすると、この空所に入るのは戦時共産主義とわかります。レーニンの指導のもと実施されましたが、穀物の生産は低下し、餓死者が出る事態までになりました。
(11) 「ポイントのまとめ」を参考にすると、この空所に入るのは新経済政策(ネップ)です。与えられた選択肢にはそれがありませんので、答えはeとなります。戦時共産主義と新経済政策(ネップ)はセットで問われることが多いので、まとめておさえるようにするといいでしょう。
問2
(12) ナロードニキとは、農民の中に入り社会主義実現のための革命思想を広めようとした知識人の集団のことをいいます。社会革命党はこのナロードニキの流れをくんでいるため、農民の支持を基盤としていたのです。
ロシア革命ではいくつかの政党が関わっていました。整理しておさえておきましょう。
- ボリシェヴィキ…
ロシア社会民主労働党の一派で、少数の革命家集団による急進的な革命をめざす
レーニンが指導 - メンシェヴィキ…
ロシア社会民主労働党の一派で、大衆の参加による漸進的な革命をめざす
プレハーノフが指導 - 社会革命党(エス=エル)…
ナロードニキの流れをくむ
農民を支持基盤とした - 立憲民主党(カデット)…
資本家を支持基盤とし、立憲君主制をめざした
(13) さっきの(12)の解説にもあったように、メンシェヴィキを指導していたのはプレハーノフです。ただし、難関校レベルにあたる細かい知識になりますので、難しい問題だといえるでしょう。
(14) 全ロシア=ソヴィエト会議で「土地に関する布告」が発表されたことから考えましょう。「土地に関する布告」の内容は地主の土地所有を認めずに農民に土地を分け与えるものでした。
(15) 日本は1922年までシベリア出兵を行いました。そのため、国内外から強い批判を受けました。
ポイントのまとめ
・二度の革命
第一次世界大戦の長期化により食料・燃料が不足、労働者や農民の不満が強まる
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1917年3月 三月革命(ロシア暦二月革命)
ペトログラードでデモ・ストライキ、労働者と兵士がソヴィエト(評議会)を組織
ニコライ2世が退位、ロマノフ朝が滅亡=帝政の終了
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資本家の支持する立憲民主党を中心とした臨時政府(戦争継続の方針)と、労働者・農民を基盤とするソヴィエト(戦争中止の方針)との二重権力状態
ボリシェヴィキの指導者レーニンが四月テーゼを発表、即時停戦と「すべての権力をソヴィエトへ」と主張
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ケレンスキーが臨時政府首相に就任、ボリシェヴィキを弾圧
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1917年11月 十一月革命(ロシア暦十月革命)
レーニンとトロツキーの指導によるボリシェヴィキ武装蜂起で臨時政府崩壊
翌日の全ロシア=ソヴィエト会議で「平和に関する布告」と「土地に関する布告」を発表
※「平和に関する布告」とは、無賠償・無併合・民族自決による講和を交戦国に提唱したもの(ソヴィエトの主張と一致)で、「土地に関する布告」とは地主の土地を没収して農民に与えるというものでした。
つまり、十一月革命は労働者の政権が樹立した社会主義革命といえるわけです。
・ボリシェヴィキの独裁とソ連の成立
1917年11月 憲法制定議会総選挙で社会革命党が第一党、ボリシェヴィキは第二党に
→レーニンが武力で議会を閉鎖
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ボリシェヴィキの一党独裁が始まる
ボリシェヴィキはロシア共産党に改称、首都をモスクワに移す
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自国への影響をおそれて米・英・仏・日が出兵(対ソ干渉戦争)
ロシアの反革命勢力は各地に反革命政権を樹立
共産党は赤軍の結成や反革命の取り締まり機関であるチェカ創設で対抗
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1918年 戦時共産主義政策実施
反革命と干渉軍に対抗するための経済政策
私企業の禁止、中小工場の国有化、食料配給制と農民からの穀物徴発を実施
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農民の生産意欲が低下して生産が低下、飢饉が発生
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1921年 新経済政策(ネップ)実施
小規模の私企業・農民の穀物自由販売を承認
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1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立
世界各国もソ連承認へと転換