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この問題でおさえておきたいこと

ドイツ・スイス・イギリスの宗教改革は誰によって進められ、どんな展開で新派として確立したかをつかむ!
ルター・カルヴァンの思想もチェック事項!

解答
   イ   …a      ロ   …c
   ハ   …d
① b   ② a   ③ c
④ a   ⑤ d

解説

   イ    レオ10世はメディチ家の出身だということもぜひおさえておきましょう。

   ロ    「ポイントのまとめ」にあるとおり、この同盟が組まれた後に、シュマルカルデン戦争が起こり、アウクスブルクの和議へとつながっていきます。

   ハ    これにて表明された経済活動の肯定という倫理観が、資本主義の精神の形成をもたらしたと考えられています。このような考えは、マックス=ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で明らかにされました。

① 長老制(長老主義)とは、教会員の中から長老を選び牧師を補佐させるというしくみです。これはカルヴァン派がとっていたものなので、トリエント公会議を召集したカトリック教会がとっていたものではありません。

② 「ポイントのまとめ」にあるとおり、同時代のフランス国王はアンリ4世ではなくフランソワ1世で、イタリア戦争で対立していました。ちなみに、アンリ4世はナントの勅令でプロテスタントを公認したフランス国王です。

③ 「ポイントのまとめ」にあるとおり、ドイツ農民戦争を指導していたのはトマス=ミュンツァーです。ツヴィングリはスイスの宗教改革のさきがけとなった人です。

④ アウクスブルクの宗教和議は領邦議会ではなく帝国議会で発布されました。このことがわからなくても、消去法で解くことができるでしょう。

⑤ 「ポイントのまとめ」を参照してください。

ポイントのまとめ

・ドイツの宗教改革

当時のドイツは政治的に分裂していたため、教会に介入され搾取されていた
(そのため、ドイツは「ローマの牝牛」といわれていた)

そのようななか、教皇レオ10世がドイツで贖宥状を販売
サン=ピエトロ大聖堂の修築費用を調達するため

1517年 マルティン=ルター『九十五ヵ条の論題』で贖宥状の販売を批判

主張した思想

『キリスト者の自由』を出版、従来の考え方を変更しなかったため、ローマ教皇から破門

神聖ローマ帝国皇帝カール5世ヴォルムス帝国議会でルターに主張の撤回をせまる
→ルターは拒否、皇帝はルターの権利を奪う

ザクセン選帝侯のフリードリヒがルターを保護、ルターは『新約聖書』のドイツ語訳を完成

ルターの影響を受けた農民たちがトマス=ミュンツァーを指導者として、農奴制などの12カ条の要求をかかげたドイツ農民戦争を起こす
ルターははじめは農民反乱を支持したが、運動が過激化すると批判的となった

カール5世がルター派を承認(国内で争っている場合ではないため)

背景

フランソワ1世と和解すると、カール5世は信仰の自由を取り消し
ルター派は弾圧に抗議(ルター派はプロテスタントとよばれる)

ルター派の諸侯や都市が結束してシュマルカルデン同盟を結成
1546~1547年 シュマルカルデン同盟とカール5世との間でシュマルカルデン戦争が起こる

1555年 アウクスブルクの和議が成立
領主にはカトリックとルター派の選択の自由が認められる
個人には信仰の自由はなく、自分の領主の宗派に従わなければならなかった(=領邦教会制

ルター派は北ヨーロッパに広がる

・スイスの宗教改革

ツヴィングリチューリヒで改革を開始
その後、カトリック勢力と戦い戦死

カルヴァンジュネーヴで改革をはじめ、神権政治を行う
ルターの影響を受けて『キリスト教綱要』を出版

主張した思想

カルヴァン派の信仰が西ヨーロッパにひろがる

各地での呼び名

・イギリスの宗教改革

ヘンリ8世が自身の離婚問題でローマ教皇と対立

1534年 ヘンリ8世が首長法(国王至上法)を制定
イギリスの教会は国王を首長とすると宣言、修道院も解散して土地財産も没収
イギリス国教会が成立

エドワード6世が一般祈祷書を制定、カルヴァン派の教義を採用

メアリ1世がスペイン国王フィリペ2世と結婚
カトリック復帰をくわだて、国教会を弾圧

1559年 エリザベス1世統一法を制定
礼拝や祈祷などを統一(教義ではカルヴァン主義を採用、儀式面ではカトリックと共通)
=イギリス国教会の確立

・カトリックの動き

対抗宗教改革(カトリック側の改革運動)に乗り出す