この問題でおさえておきたいこと
イギリスがインドを植民地化した過程を地図で位置を確認しながらおさえよう!
イギリスが戦った戦争とインド側の起こした反乱もチェックポイント!
解答
問1 ④ 問2 ① 問3 ③
解説
問1 「ポイントのまとめ」にあるとおり、フランスが建設していた拠点はポンディシェリとシャンデルナゴルなので、その知識だけでも解けますが、地図で位置を確認していればより答えやすかった問題です。都市名が出れば地図帳などで位置を確認することを習慣にしていきましょう。
問2 ①:「ポイントのまとめ」にあるとおり、インド大反乱はシパーヒー(セポイ)の反乱ともよばれますから、この文が正しいです。
②:ガンディーが非暴力・不服従運動を展開したのは第一次世界大戦後のことなので、時代がちがいます。
③:常勝軍が活躍したのは中国の太平天国の乱です。
④:「ポイントのまとめ」にあるとおり、ヴィクトリア女王が兼ねたのはムガル帝国ではなくインド帝国の皇帝です。
問3 地図中のaはパンジャーブ、bはベンガルを示しています。よって、aを含んでいる①と②は誤りとなります。
プラッシーの戦いは、フランスとベンガル太守の連合軍を相手に戦ったことからわかるとおり、ベンガルで行われた戦いです。よって、bで起こった出来事はアということになるので、それらの組合せとなっている③が正解となります。
ちなみに、イで述べられているシク教徒の勢力のいる地域はaのパンジャーブで、シク戦争もその場所で行われています。
ポイントのまとめ
ムガル帝国の弱体化
- 皇帝アウラングゼーブの死後、イスラム教とヒンドゥー教が対立
- イギリスとフランスの進出が本格化→拠点建設
※イギリスとフランスは次の都市を拠点にしました。
イギリス…マドラス・ボンベイ・カルカッタ(コルカタ)
フランス…ポンディシェリ・シャンデルナゴル
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イギリスとフランスの植民地抗争
- カーナティック戦争(1744年~1763年)にて南インドでイギリスがフランスに勝利
- プラッシーの戦い(1757年)にて北インドでイギリスがフランス・ベンガル太守連合軍に勝利
→イギリスは初代ベンガル知事にクライヴを任命してベンガル地方を掌握
※これらの植民地抗争はヨーロッパや北米での戦争と連動して展開されまいた。
カーナティック戦争…ヨーロッパのオーストリア継承戦争
プラッシーの戦い…ヨーロッパの七年戦争・北米のフレンチ=インディアン戦争
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イギリスのインド支配の本格化
- 東インド会社がベンガル地方の徴税権(ディーワーニ)を獲得
→東インド会社は単なる商業機関ではなく行政権をもった植民地支配機関に - マイソール戦争(1767年~1799年)にて南インドのマイソール王国を滅ぼす
- マラーター戦争(1775年~1818年)にて中央インドのマラーター同盟を滅ぼす
- 1815年 ウィーン議定書でオランダからセイロン島を獲得
- シク戦争(1845年~1849年)にてパンジャーブ地方のシク王国を滅ぼす
※南北で違う租税制度をとって税の徴収を確実にしていたこともおさえましょう。
北インド…ザミンダーリー制(税の徴収を、政府と農民の仲介者に任せるかわりに、その人に土地所有権を認める)
南インド…ライヤットワーリー制(農民に土地所有権を与え、直接農民から徴税する)
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インド社会の崩壊
- イギリスによる租税制度の導入→従来の村落共同体の破壊・重税による生活苦が起こり、農民が没落
- イギリスの産業革命による機械製綿布が流入→イギリスの綿工業が破壊
- インドは商品作物(綿花・アヘン・茶)の栽培地に→自給自足的な村落社会が崩壊
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1857年 インド大反乱の発生(シパーヒー(セポイ)の反乱ともいう)
シパーヒー(東インド会社のインド人傭兵)が反英の反乱を起こし、ムガル皇帝を擁立
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イギリスにより鎮圧
1858年 ムガル帝国滅亡・東インド会社解散
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1877年 インド帝国成立(ヴィクトリア女王が皇帝を兼ねる)
強圧的統治を改め分割統治を実施(直轄地はイギリスが直接統治し、藩王国は内政権を与えて間接統治する)