この問題でおさえておきたいこと
ビザンツ帝国の歴史についてはユスティニアヌス帝が一番のポイント!
宗教との関わり方や領土に対する制度も重要!
解答
問1 ④ 問2 ③ 問3 ③
解説
問1 ビザンツ帝国では皇帝教皇主義がとられていましたから、皇帝が宗教にも権力を行使したということになり、政教分離が徹底されているとはいえません。
ちなみに、②で述べられている制度は屯田兵制のことだといえます。
問2 ①:聖ソフィア聖堂を建設したのはレオン3世ではなくユスティニアヌス帝です。
②:コンスタンティノープルがササン朝によって征服されたことはありません。コンスタンティノープルを征服したことがあるのは第4回十字軍で、第4回十字軍はラテン帝国をたてました。
③:ビザンツ様式の特徴はドームとモザイク壁画ですから、この文は正しいといえます。
④:ビザンツ帝国でギリシア語が公用語化されたのは7世紀頃であるのに対して、東西教会の最終的分離は1054年ですから、ギリシア語の公用語化が先にされています。
問3 ユスティニアヌス帝は東ゴート王国を滅ぼしてイタリア半島を領有したので、イタリア半島の領土を失ったというのは誤りです。イタリア半島の領土を失ったのは、彼の死後です。
ポイントのまとめ
・ビザンツ帝国成立
395年 テオドシウス帝の死後、ローマ帝国が東西分割
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西側は西ローマ帝国…オドアケルにより滅亡(476年)
東側は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として約1000年存続
・初期(4~8世紀)
ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス帝)の統治
1)対外政策
- 534年 ヴァンダル王国を滅ぼす→北アフリカを制圧
- 555年 東ゴート王国を滅ぼす→イタリア半島を征服、地中海の旧ローマ帝国領を回復
- 西ゴート王国と抗争→イベリア半島の一部を征服
- 東方ではササン朝のホスロー1世(ササン朝全盛期の王)と対抗
2)国内政治
中国から養蚕技術を学び、絹織物業を発展
3)文化
- 首都コンスタンティノープルに聖ソフィア(ハギア=ソフィア)聖堂を建設
…ドームとモザイク壁画を特徴とするビザンツ様式の代表的建築物 - トリボニアヌスらに命じ、『ローマ法大全』を完成
↓
ユスティニアヌス帝の死後、領土縮小
原因:
- 広大な領土の運営→民衆の負担増加・財政難
- ササン朝との抗争激化
- アヴァール人やブルガール人の侵攻
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ヘラクレイオス1世の統治
外敵の侵入に備えた防衛のための制度をつくる
- 軍管区制(テマ制)
…領土を軍管区(テマ)に分けてそこに軍司令官をおき、行政権と軍事権を与える - 屯田兵制
…兵士や農民に土地を与えるかわりに兵役の義務を課す
帝国のギリシア化もすすむ
←イタリア半島やイベリア半島の領土を失ったことや、公用語をラテン語からギリシア語にしたことが背景
・中期(8~11世紀)
レオン3世の統治
皇帝権の強化をはかる
- 726年 聖像禁止令を出し、聖像画(イコン)の使用を禁止
→ローマ教会と対立、後に聖像復活となるが対立は解消されず - 皇帝教皇主義を確立し、ビザンツ帝国皇帝が政治・宗教の両権力をもつ
→東西教会の分裂へ
※ビザンツ帝国中期の時代に、バシレイオス1世がマケドニア朝をひらいています。
・後期(11~15世紀半ば)
セルジューク朝の侵入、マンジケルトの戦いに敗れる
↓
アレクシオス1世の統治
- プロノイア制の導入
…軍事による奉仕を条件に、国内有力者(貴族など)に公有地管理を委任する - ローマ教皇に支援を要請、ローマ教皇は十字軍派遣を決定
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帝国の弱体化
- プロノイア制により貴族が強勢に
- ヴェネツィアの策略により、第4回十字軍が首都コンスタンティノープルに侵入、ラテン帝国を建国
ビザンツは亡命国家(ニケーア帝国)を建国=ビザンツ帝国の中断
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ジェノヴァの支援を受けてニケーア帝国がラテン帝国を滅ぼす
=ビザンツ帝国復活
↓
1453年 オスマン帝国のメフメト2世によりコンスタンティノープル陥落
=ビザンツ帝国滅亡