この問題でおさえておきたいこと
叙任権闘争→カノッサの屈辱→ヴォルムス協約の流れにより、教会の権力が確立したことをおさえよう!
ターニングポイント時の教皇の名前もおさえる!
解答(例)
教会の改革に取り組むグレゴリウス7世は教会の世俗化を防ぐため、聖職叙任権を取り戻そうとしたが、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世はこれに反発し、叙任権闘争が始まった。ハインリヒ4世が破門されると、彼はカノッサにいる教皇に許しを懇願したが、これは教皇権の強まりを意味した。その後結ばれたヴォルムス協約では教皇の叙任権が認められて教皇の権威が確立し、インノケンティウス3世の頃、教皇権は全盛となった。(197字)
解説
「必ず使いなさい」というキーワードが与えられていますから、これをどう使うのかがこの問題を解く1つのカギとなります。まず、そのキーワードから何が思い浮かぶかを洗い出しましょう。論述のテーマは「教皇権」なんですから、それにもとづいて考えます。
- インノケンティウス3世
…教皇権の絶頂期のときの教皇 - ヴォルムス協約
…1122年に教皇と皇帝の間で結ばれ、叙任権闘争終了。教皇の権威が確立 - カノッサ
…1077年にハインリヒ4世が教皇に許しを懇願した「カノッサの屈辱」。教皇の権力が高まる
教皇権がどう確立していったかを答えるわけですから、時系列的に論述すればよく、さっきの洗い出した内容から考えると、「カノッサの屈辱」→「ヴォルムス協約」→「インノケンティウス3世の時代」という順番で論じればよいと判断できます。
ただし、カノッサの屈辱でハインリヒ4世が謝罪したということは、彼が当時の教皇と何らかのことで対立をしていたということを示しているわけですから、そのことについても触れないといけません。よって、叙任権闘争のことについても触れる必要性があります。
さらにいうと、叙任権闘争を起こしたきっかけは、グレゴリウス7世が教会の改革の一環として聖職叙任権を取り戻そうとしたことにあったのですから、それについても触れると、叙任権闘争やカノッサの屈辱に至る過程をより具体的に書けるでしょう。
解答のチェックポイント
- 教会の腐敗・堕落に対する改革が進められていたこと、その一環として聖職叙任権を教会側が取り戻そうとしたことにふれているか
- 教会側に対して皇帝側が反発したことにふれ、その対立を叙任権闘争という用語を使って説明しているか
- 叙任権闘争の当事者として、グレゴリウス7世(教皇)とハインリヒ4世(皇帝)を挙げているか
- ハインリヒ4世がグレゴリウス7世に許しを懇願したことにふれていて、その結果として教皇権が強まったことを説明しているか
- ヴォルムス協約の歴史的意義として、教皇の権威が確立したことを説明しているか
- インノケンティウス3世が教皇権の絶頂期にいた教皇だということにふれているか
ポイントのまとめ
教会の腐敗・堕落
(聖職売買(シモニー)や聖職者の結婚など)
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フランス中東部に設立されたクリュニー修道院が中心となって粛正運動が始まる
1073年 ローマ教皇グレゴリウス7世(クリュニー修道院出身)は改革を推進(聖職者の規律強化)
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グレゴリウス7世が聖職叙任権(司教などの聖職者を任命する権利)を教会に取り戻そうとする
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神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世がこれに反発(=叙任権闘争のはじまり)
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グレゴリウス7世、ハインリヒ4世を破門(=当時の社会的抹殺)
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1077年 カノッサの屈辱
(ハインリヒ4世が雪の中、三日間立ち尽くし、グレゴリウス7世に許しを乞う)
グレゴリウス7世は破門を解く=教皇の権力は強まる
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十字軍運動
ビザンツ帝国皇帝の要請を受けた教皇ウルバヌス2世が聖地回復を国王や諸侯に呼びかけて十字軍を派遣
聖地奪還に成功し、教皇の権威はより高まる
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1122年 ヴォルムス協約で教皇と皇帝の間の妥協が成立
ドイツ以外での教皇の聖職叙任権を認める=教皇の権威が確立
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インノケンティウス3世の時代に教皇権が絶頂に