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この問題でおさえておきたいこと

条約改正交渉の中心人物をおさえ、それを軸に交渉内容や国際的背景などを理解しよう!

解答
   A   …下田      B   …石炭
   C   …井上      D   …五
   E   …居留地      F   …大審院
(a) い   (b) アメリカ   (c) い
(d) い   (e) い

解説

   A   

日米和親条約によって開港した場所を答える問題です。かなり基本的な問題ですので、ここは落としたくないという問題だといえます。空所の直前に伊豆とあること、そして空所より後に箱館(=函館)が書かれていることから「下田」を導くことができます。

   B   

「薪水・食料」と直前にありますから、長い航海において必要になるものを述べていると推測できます。この当時の船は蒸気船で、燃料として石炭を利用していました。そのことが考えるうえでのヒントとなるでしょう。

(a) これを片務的、つまり条約を結んだ2つの国のうち片方の側しか認めていなかったため、不平等な条約となったのです。

   C   

史料に関税の引き上げ、内地雑居、法律の改正の予約(=法典の予約)のことがふれられていますから、それらを根拠に、この史料は井上馨の条約改正交渉について述べているものだと考えることができます。よって、この空所に入るのは井上馨の名字ということとなります。

   D   

1866年の改税約書によって、輸出入税は5%と取り決められました。これを「一部回復」しようとしたのが井上馨の関税についての交渉でした。具体的には、五分(5%)から一割(10%)に引き上げるという内容であり、この空所はまさにこの内容について出題していたというわけです。

   E   

欧米諸国は、一定の地域に外国人を囲い込んで生活させる居留地制度を廃止して、日本国内の居住の自由を与える内地雑居を認めるよう求めていました。

(b) 「岩倉,木戸,大久保,伊藤」という人名から、これは「ポイントのまとめ」にも書かれている岩倉使節団のことだとわかります。岩倉使節団が最初に訪れたのはアメリカです。

   F   

外国人判事を4人に限定していることから、井上馨の交渉からもう少し段階が進んでいる状態とわかり、そこから大隈重信による交渉についての史料と考えることができます。「ポイントのまとめ」にもあるとおり、大隈重信は大審院に限り外国人裁判官の任用を認めました。

(c) さっきのように史料から大隈重信と判断する方法以外に、消去法で解くという方法もあります。寺島宗則は外務卿で、西園寺公望は条約改正交渉とは関係がありません。そして、青木周蔵は外国人判事の任用そのものを拒否していました。

(d) 史料中の明治27年とは1894年であり、下線部④の条約とは日英通商航海条約のことです。その内容は「ポイントのまとめ」に示されているとおりです。

(e) 史料に1911年とありますが、これは第2次条約改正のときの内閣で第2次桂太郎内閣です。「ポイントのまとめ」でも示されていますが、年号からおおよその内閣を判断できるようになっておきましょう。

ポイントのまとめ

・条約改正交渉

交渉の中心人物 交渉の内容 結果・国際的背景など

1858年 安政の五カ国条約を締結

日本滞在中に外国人が犯罪を犯してもその外国人の母国の領事が裁判をする領事裁判権治外法権)を認め、日本の関税自主権の欠如も容認

岩倉具視

1871年 大久保利通木戸孝允伊藤博文や留学生の津田梅子などとともに岩倉使節団として欧米に出向き、視察と同時に改正の予備交渉をおこなう

現段階での交渉を断念、視察に専念

寺島宗則

関税自主権の回復に関して交渉

アメリカとの交渉に成功、しかし、イギリスやドイツなどの反対で無効に

井上馨

欧米の歓心を買って改正交渉をうながすため欧化政策を推進
(イギリス人のコンドルが設計した鹿鳴館で舞踏会を開催する、など)

1886年 ノルマントン号事件
イギリスの貨物船が難破し、イギリス人乗組員は全員無事に脱出したが、日本人乗客は全員水死したにもかかわらず、領事裁判権によってイギリス人乗組員は全員無罪となった事件

世論は領事裁判権撤廃を強く要求

1887年 欧米諸国は領事裁判権撤廃に次の条件付きで了承
1.被告が外国人の裁判では半数以上の外国人裁判官を任用する
2.外国人に日本国内の居住・旅行・営業の自由を認める(内地雑居

欧化政策に政府内外からの批判がもともとあったうえに、改正のための条件も国家主権の侵害であると批判があがる
→井上馨は辞職

大隈重信
(黒田清隆内閣)

領事裁判権撤廃をめざし、大審院(最高裁判所に相当する)に限り外国人裁判官の任用を認める

対外硬派の団体である玄洋社によるテロで負傷、条約改正交渉は中断

青木周蔵
(第1次山県有朋内閣)

イギリスに対し領事裁判権撤廃の交渉を始める

シベリア鉄道建設などロシアのアジア進出を警戒し始めたイギリスは態度を軟化

1891年 大津事件
来日したロシア皇太子が巡査津田三蔵に襲撃された事件
(日露関係悪化を恐れて政府は津田三蔵の死刑を要請したが、大審院長の児島惟謙はこれを拒否して司法権の独立を守る)

青木周蔵が引責辞任、条約改正交渉は中止

陸奥宗光
(第2次伊藤博文内閣)

条約の一部改正という条件で交渉

1894年 イギリスと日英通商航海条約調印
領事裁判権の撤廃関税自主権の一部回復、相互対等の最恵国待遇を達成

ほかの欧米諸国とも同様の改正を達成

小村寿太郎
(第2次桂太郎内閣)

1911年 アメリカと新通商航海条約調印
関税自主権の完全回復を達成