この問題でおさえておきたいこと
天保の改革の最重要事項は人返しの法と上知令!
3藩の領知替えの失敗など幕府の権威の低下も要チェック事項!
解答
問1 エ 問2 カ 問3 ウ
問4 イ,カ 問5 オ 問6 ア
問7 エ,オ 問8 ウ,オ
解説
問1 史料に「仲間株札」や「問屋仲間」という語句があることや、「問屋仲間」と「唱え」ることは「相成らず」(=禁止する)と書かれていることから、株仲間を禁止する内容が書かれていると判断できます。よって、この史料は株仲間解散令の通達ということになります。
問2 問1で考えた株仲間解散令が出されたのは天保の改革でのことです。「ポイントのまとめ」にもありますが、天保の改革をおこなったのは水野忠邦です。享保の改革は徳川吉宗,寛政の改革は松平定信ということとあわせておさえるべき超基本事項です。
問3 「ポイントのまとめ」の説明のとおり、株仲間が商品の流通を独占していることで物価が高騰していると水野忠邦は考えたので、株仲間解散令は物価対策のために発令されました。
ちなみに、株仲間解散令はかえって流通の混乱を招いてしまい、効果があがりませんでした。水野忠邦の失脚後に撤回され、1851年(嘉永4年)に株仲間再興令(嘉永の再興令)が出されました。
問4 ア:「18世紀以前は」と限定しているのが誤りです。18世紀以後でも冥加は商工業者に税金として課されていました。
イ:冥加の基本的事項についての説明であり、内容に間違いもありませんので、正しい記述です。
ウ:この文の内容に根拠はなく、完全に誤った内容の文です。
エ:徳川吉宗は享保の改革で、風俗や物価統制のため、株仲間結成を奨励しました。よって、「冥加上納を禁止した」というのは誤りです。
オ:「臨時に」課されたとしているのが誤りです。冥加は毎年、一定の率で課されていました。
カ:田沼意次の基本的政策の内容と合っています。
問5 最終的な、最大の消費地は、人口が一番多い江戸だと考えられますから、これを入れるのが適切でしょう。
問6 鈴木牧之の『北越雪譜』は1837年に刊行され、雪国の自然や生活を紹介した、化政文化を代表する著作の一つです。ほかに民俗学の先がけとなった菅江真澄の『(菅江)真澄遊覧記』も化政文化を代表する著作の一つです。
問7 ア:これは上知令の説明ですが、「ポイントのまとめ」にもあるとおり、強い反対にあって撤回されました。よって、断行されていません。
イ:七分積金の説明ですが、これは寛政の改革の政策なので、時期がちがいます。
ウ:「ポイントのまとめ」にもあるとおり、これも抵抗にあって撤回されましたので、断行されていません。
エ:これは天保の改革でおこなわれた政策で、撤回などもされていません。
オ:「ポイントのまとめ」にもあるとおり、これは天保の改革における人返しの法の政策ですので、これも正解です。断行されたかどうかの判断が悩ましいですが、撤回されたりすることはなかったので正解とみなしてよいでしょう。
カ:これは寛政の改革でおこなわれたことです。
問8 さっきの問3の解説にもあったとおり、株仲間解散令により流通が混乱したので、その後撤回されました。流通が混乱したため、江戸へ流入する商品の量も少なくなってしまいましたので、アとエの選択肢は誤りとわかります。
また、天保の大飢饉の発生により、大塩平八郎の乱が起き、それに影響を受けて生田万の乱など武装蜂起が多く起きました。それが幕府に衝撃を与え、天保の改革につながったという歴史上の流れから考えれば、イやカの選択肢も誤りとわかります。
ポイントのまとめ
・幕府の動き
1841年 第11代将軍徳川家斉死去
→第12代将軍徳川家慶のもとで老中水野忠邦により天保の改革がおこなわれる
・天保の改革の具体的内容
1)倹約と綱紀粛正
- 倹約令を発令、ぜい沢品や華美な衣服の禁止
- 風俗の取締りのため、江戸の寄席を減らし、歌舞伎を浅草のはずれに移動
- 『春色梅児誉美』などの著者である為永春水、『紫田舎源氏』などの著者である柳亭種彦を処罰
2)農村の再興
人返しの法を発令、出稼ぎのために江戸に流入する農民を強制的に帰郷
3)物価高騰への対応
- 株仲間が、商品の流通を独占しているために物価が高騰したと考えたため、株仲間解散令を発令
- 棄捐令を発令、生活が圧迫されている旗本や御家人の借金帳消し・低利の貸金
4)海岸防備
異国船打払令を緩和、薪水給与令を発令し、水や燃料、食料を与えて外国船には帰ってもらう方針に転換
(アヘン戦争で清が外国に負けたことが影響)
・幕府の権威低下の露呈
1)土地支配権の弱体化
川越藩の財政援助を目的に、川越藩主の領地を庄内藩に、庄内藩主の領地を長岡藩に、長岡藩主の領地を川越藩に移動しようとした(三方領知(領地)替え)
↓
庄内藩の領民が反対一揆を起こして抵抗、三方領知(領地)替えは撤回
2)失策と水野忠邦の失脚
1843年 上知令を発令、江戸・大坂周辺を幕府の直轄領にしようとした
↓
強い反対により上知令は撤回、水野忠邦は退陣
→天保の改革は失敗に終わる
・天保の改革が失敗した背景
1)農村の変化
人口の減少により田畑が荒廃
=農村の年貢米を財政基盤にした幕藩体制は行き詰まり
↓
農村にも多様な職業が広がり、貧民も存在
=その問題に対処しないで農村の復興策をおこなっても幕藩体制の立て直しは不可能
※19世紀前半、田畑の荒廃に対応する農業指導者として、二宮尊徳や大原幽学などがいました。
2)経済の変化
18世紀、問屋が農民などに原料や資金を貸して生産させ、加工賃を払って生産物を引き取る問屋制家内工業)が始まった
↓
19世紀、問屋や地主が用意した作業場に労働者を集めて、分担・協力によって商品を生産する工場制手工業(マニュファクチュア)が始まった
この労働力として農民が利用された→農村の職業の多様化
さらに、諸藩がマニュファクチュアを直営するという藩営工業も展開されるようになった
→諸藩が経済力・軍事力をつけるようになり、幕藩体制がますます揺らぐように