この問題でおさえておきたいこと
自由民権運動において、民権派が立ち上げた団体や求めた内容、政府がどう対応したかを整理しよう!
解答
問1
① 民撰議院設立の建白書
② 公議
問2
① 板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正などから2人
② 愛国公党
問3(例)
不平士族の対策でもあった征韓論を主張する参議が下野した征韓論政変が起こり、その不平士族の新政府批判に支えられて民撰議院設立の建白書が提出された。この建白書が提出され、自由民権運動は全国規模で展開されるようになった。そして、新政府は内閣制度や欽定憲法、議会制度などに代表される立憲主義体制の整備を進めた。
問4
① 植木枝盛
② 私擬憲法
問5
( ア )…人権(権利)
( イ )…立法権
( ウ )…抵抗(革命)
問6
① (例)政府の物件が長官と同郷出身の政商に安く払下げようとされる開拓使官有物払下げ事件をきっかけに、早期の議会開設を政府内で主張していた大隈重信一派は伊藤博文により罷免されるという明治十四年の政変が起こった。国民に対しては、政府は国会開設の勅諭を発し、10年以内の国会開設を公約した。
② (例)大隈重信一派を追放することで薩長藩閥体制が確立し、この体制のもとで内閣制度や大日本帝国憲法の制定など立憲主義体制の構築が急がれた。一方で、板垣退助は自由党、大隈重信は立憲改進党を組織しており、これら民権派と薩長藩閥政府が国会で対立するという構造の下地ができることとなった。
解説
問1 民撰議院設立の建白書は資料集にも取り上げられている基本史料なので、ぜひ確認しておきまよう。②で問われていた「公議」とはおおやけに公平に議論することや、世論のことを意味します。
問2 民撰議院設立の建白書が出された当時は、「ポイントのまとめ」にも示されていますが、立志社や愛国社などの団体はまだ立ち上がっていないことに注意です。
問3 明治維新により士族の特権が次々となくなり、内政に対する不平士族の不満はどんどん高まっていきました。その不満の矛先を外に向けさせたものが征韓論(朝鮮を武力で開国させようとする主張)でした。しかし実際は、明治政府は内政を安定させることを優先しました。
征韓論を主張した参議は政府を去りますが、士族の不満はこれでさらに高まり、佐賀の乱や西南戦争(西南の役)などの武力蜂起に至ります。しかし、それらが鎮圧されると、武力ではなく言論により政府に対抗しようという流れとなります。これが当時の時代背景であり、これを簡潔に説明する必要があります。
そして、「ポイントのまとめ」にも示されていますが、これを契機に自由民権運動がどんどん展開されていくようになります。政府もこれを無視できなくなり、大阪会議を設けるなどの対応をし、実際に伊藤博文を中心に立憲主義体制の構築が進められます。
その後の政治に及ぼした影響としては、この「自由民権運動のますますの高まり」と「政府による立憲主義体制構築」の2点についてふれるといいですね。
解答のチェックポイント
- 背景として征韓論の存在にふれているか
- 征韓論を唱えていた参議が政府を去ったことを背景として説明しているか
- 自由民権運動がますますの高まりを見せることになったことを影響として挙げているか
- 政府は立憲主義体制の構築を進めたことを影響として挙げているか
問4 「ポイントのまとめ」を参照してください。
問5 「ポイントのまとめ」を参照してください。
問6 「一大事件」とは開拓使官有物払下げ事件のことを指します。この事件の内容については、「ポイントのまとめ」を参考にすればよいでしょう。とくに、「新たな政治制度をめぐる政府内部の意見対立」と問題文にありますので、「大隈重信の罷免」と「10年以内の国会開設公約」の2点が盛り込むべき内容です。
この事件後の政治については、国会開設など立憲主義体制の構築が進められたことがまず挙げられますが、それだけではじゅうぶんな解答とはいえません。大隈重信が罷免されることで完全な薩長藩閥政府がつくられます。この政府が今後の国会開設によってどういう展開を迎えるかについてもふれるべきでしょう。
民権派によっていろいろな政党がつくられることが「ポイントのまとめ」にもありますが、これは国会開設後の動きをにらんだものでもありました。実際、初期議会では政策をめぐって薩長藩閥政府はその政党と対立していくこととなります。その点についても記述をしていくとじゅうぶんな解答となるでしょう。
①の解答のチェックポイント
- 政府の官有物が不当に安く払い下げられようとしたということが説明されているか
- 政府内で意見が対立していた大隈重信が罷免されたことを説明しているか
- 国会開設の勅諭についてふれているか
②の解答のチェックポイント
- 立憲主義体制の構築が進められたことを説明しているか
- 民権派が政党を組織していることについてふれているか
- 政府と民権派の政党が今後対立していくことにふれているか
ポイントのまとめ
・自由民権運動の流れ
自由民権運動 | 政府の対応 |
1874年 板垣退助や後藤象二郎たちが愛国公党を結成 |
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板垣退助が民権思想普及のため立志社を設立 |
民権運動の高まりを受け、大久保利通は板垣退助や木戸孝允らと大阪会議を実施 |
新聞や雑誌で政府を批判 |
新聞紙条例・讒謗律を定めて言論弾圧 |
1877年 片岡健吉が立志社建白を政府に提出し、国会開設を要求 |
立志社建白を却下 |
1880年 愛国社を拡張して国会期成同盟を結成、国会開設嘆願書を政府に提出 |
嘆願書を不受理 |
1881年 開拓使官有物払下げ事件 |
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開拓使官有物払下げ事件をもとに激しく政府を攻撃 |
明治十四年の政変 |
さまざまな政党が結成される
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自由民権運動が激化する
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いったん民権運動が衰退するも、後藤象二郎や星亨らによって推進された大同団結運動により、民権派が結集 |
保安条例を定めて民権派を東京から追放 |
・さまざまな憲法私案
自由民権運動のさなか、民権派は主張や政策を表すため、理想とする憲法の私案を作成した。この憲法の私案が私擬憲法である。
例:
- 植木枝盛が起草した東洋大日本国国憲按
(国民主権や一院制議会、抵抗(革命)権などを規定した最も民主的な私擬憲法) - 交詢社が作成した私擬憲法案
- 立志社が作成した日本憲法見込案
- 日本帝国憲法(五日市憲法)