この問題でおさえておきたいこと
吉田、鳩山、岸、池田、佐藤それぞれの政権がとった政策について外交を中心にチェック!
吉田、鳩山、岸3政権は「逆コース」の政策も重要!
解答
問1 ⑤
問2 ア …④ イ …① ウ …⑤
問3 ③
問4 ②・⑦
問5 ④
問6 ②
問7 ①・⑤
解説
問1 小笠原諸島の返還が達成されたのは「ポイントのまとめ」にあるとおり、佐藤栄作政権のときなので、佐藤政権のことを述べている段落の最後であるEに入れるのが適切です。佐藤栄作が外交で残した業績は日韓基本条約、小笠原諸島の返還、沖縄返還の3つなので、この3つをセットでおさえましょう。
問2 ア は鳩山一郎政権、 イ は佐藤栄作政権のことを述べている段落にあるので、「ポイントのまとめ」より、 ア は日ソ共同宣言、 イ は日韓基本条約のことを述べていると考えることができます。
ウ についてですが、田中角栄政権は中華人民共和国と日中共同声明を発表して日中国交正常化を実現させました。ちなみに、その後、福田赳夫政権は日中平和友好条約を締結しました。
問3 第二次世界大戦後、国際情勢としては中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発という事態が起き、東西冷戦の対立が際立つこととなっていきました。このことにより、アメリカは日本の重要性を認識することとなり、西側陣営として組み込もうという方針をとることとなりました。
このような背景があったため、日本独立のためのサンフランシスコ平和条約が結ばれることとなったのです。ちなみに、ほかの選択肢にある、アジア-アフリカ会議、原水爆禁止世界大会開催、血のメーデー事件はすべてサンフランシスコ平和条約発効より後のできごとです。
問4 「ポイントのまとめ」を参照してください。
問5 「ポイントのまとめ」を参照してください。
問6 ①:教育委員を公選制から任命制に変えたのは鳩山一郎です。
②:「ポイントのまとめ」にあるとおり、この文の内容は正しいです。
③:岸信介は警察官職務執行法を改正しようとしましたが、反対の声が大きかったので改正案は廃案となりました。よって、改正はされませんでした。
④:農業基本法を制定したのは池田勇人です。
問7 新安保条約では、「ポイントのまとめ」にあるとおり、それまで明記されていなかったアメリカの日本防衛義務が明文化されました。
また、よど号事件は赤軍派が起こしたハイジャック事件、浅間山荘事件は連合赤軍が保養所で人質をとって起こした立てこもり事件であり、いずれも安保闘争とは関係していません。よって、①・⑤が誤りです。
ちなみに、衆議院で可決されたものを30日以内に参議院で可決されなかった場合は、衆議院で可決されたものが自然承認されていきます。日本国憲法で規定された衆議院の優越にあたりますが、新安保条約はこの規定により成立しました。
ポイントのまとめ
・講和条約後の内閣それぞれの政策
1)吉田茂内閣(第3次~第5次)(1949年2月~1954年12月)
外交
① 1951年9月 サンフランシスコ平和条約調印
日本と48か国との講和条約
ただし、内容への不満から、ソ連は調印拒否、インドとビルマは講和会議を欠席
これにより、日本の賠償責任は著しく軽減されたが、朝鮮・台湾・南樺太・千島列島などは放棄することとなり、奄美諸島・沖縄・小笠原諸島はアメリカの施政権下となった
② 1951年9月 日米安全保障条約(安保条約)調印
米軍は日本に駐留を続けることが可能に(=日本は東西冷戦で西側陣営の一員に)
③ 1952年2月 日米行政協定締結
日米安全保障条約について細かい内容を取り決めた協定で、米軍駐留施設の無償提供や駐留費用の分担などを取り決め
④ 1952年 中華民国と日華平和条約で国交正常化
⑤ 1953年 奄美諸島が日本に返還
⑥ インドとビルマそれぞれと平和条約を締結
「逆コース」とよばれる政策
① 1952年7月 破壊活動防止法制定
1952年5月1日にデモ隊が使用不許可の皇居前広場に入り、警察部隊と衝突して多数の死傷者を出した血のメーデー事件(皇居前広場事件)が発生
この事件をきっかけに、暴力的破壊活動をおこなう団体を取り締まるために制定
その調査機関として公安調査庁を設置
② 警察と教育の改革
1954年に新警察法を制定し、自治体警察を廃止、警察庁指揮下の都道府県警察に一本化
1954年に教育二法を制定し、教員の政治活動を禁止
③ 1954年 MSA協定(日米相互防衛援助協定)締結
アメリカの援助を受けるかわりに、日本の自衛力増強を約束
これにより、保安隊(警察予備隊から発展)と海上警備隊を統合した自衛隊が発足
防衛庁も設置し、自衛隊を防衛庁の統轄下に
※占領下の民主化・非軍事化を否定ともとれるこのような政策を革新勢力(社会党、共産党など)は「逆コース」と呼びました。
その他
① 石川県での内灘事件や東京都での砂川事件など、米軍基地反対闘争が激化
② 太平洋のビキニ環礁における水爆実験で乗組員が被ばくした第五福竜丸事件を契機に原水爆禁止運動が拡大
(例:広島での第1回原水爆禁止世界大会)
③ 1953~1954年 造船疑獄事件(造船会社と政界有力者との贈収賄関係が暴露)により、吉田内閣への批判が高まる
→鳩山一郎ら自由党反吉田派が日本民主党を結成、吉田内閣退陣
2)鳩山一郎内閣(1954年12月~1956年12月)
外交
1956年 日ソ共同宣言調印
日本とソ連の間で国交が回復
平和条約を締結させたうえで、日本への歯舞群島・色丹島の返還を約束
ソ連による日本の国際連合加盟も支持され、加盟が実現
「逆コース」とよばれる政策
教育委員会を公選から任命制に変更
その他
1955年、日本民主党と自由党の2つの保守勢力が合流(保守合同)によって、鳩山一郎が総裁の自由民主党が結成され、保守勢力が議席の3分の2を占める
革新勢力も社会党左派・右派が再統一し、議席の3分の1を占める
このような、保守勢力が議席の3分の2、革新勢力が議席の3分の1を占める体制を55年体制といい、以後40年ほどつづく
3)岸信介内閣(1957年2月~1960年7月)
外交
① 1958年 インドネシアと平和条約を締結
② 1960年 日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)調印
経済協力やアメリカの日本防衛義務を明文化
日本や極東での米軍の軍事行動に関する事前協議を規定
革新勢力は日本が戦争に巻き込まれると懸念し、安保改定阻止国民会議を結成して反対運動
衆議院で条約批准が可決されると、条約への抗議・反対の運動(安保闘争)が展開
条約批准は参議院の議決を経ないまま自然成立、それにともない岸内閣は総辞職
「逆コース」とよばれる政策
① 教員の勤務評定を全国で実施
② 警察官職務執行法を改正し、警察官の権限拡大をはかる
→反対運動により、改正案は廃案に
4)池田勇人内閣(1960年7月~1964年11月)
外交
1962年 中華人民共和国との準政府間貿易(LT貿易)を決定
(交渉にあたった中国側の
その他
① 「寛容と忍耐」をスローガンに革新勢力との真正面からの対立を回避
② 「国民所得倍増計画」をうちたて、10年後までに国民所得を2倍にすると宣言(1967年に達成)
③ 1964年 東京オリンピック開催、東海道新幹線開通
5)佐藤栄作内閣(1964年11月~1972年7月)
外交
① 1965年 日韓基本条約調印
日本と
日本は韓国を朝鮮半島唯一の合法政府と認め、韓国側は賠償の請求権を放棄
② 1968年 小笠原諸島が日本に返還
③ 1971年に沖縄返還協定調印、1972年に沖縄返還が実現
ベトナム戦争への出撃拠点の一つだった沖縄で沖縄県祖国復帰運動が盛り上がったことが背景
「核抜き・本土並み」の返還が実現されたが、米軍基地は存続
その他
非核三原則(核兵器を「もたず、つくらず、もちこませず」という方針)をうちだす