この問題でおさえておきたいこと
家綱、綱吉、家宣・家継それぞれの将軍が抱えた実力者が誰か、その実力者が行った政策は何かをおさえよう!
解答
問1 保科正之 問2 由井正雪
問3 末期養子 問4 殉死
問5 大嘗祭 問6 服忌令
問7 間部詮房 問8 閑院
問9 慶長
解説
ほとんどの問題は「ポイントのまとめ」の説明を参照すればじゅうぶん対応可能です。ここでは、「ポイントのまとめ」の説明にさらに補足が必要と思われる問題について解説をしていきます。
問1 保科正之は3代将軍徳川家光の異母弟でした。家光から山形二十万石を与えられ、山形の統治をおこなった後、会津へ転封となりました。
問4 殉死の禁止は家綱の時代に口頭で伝えられ、綱吉の時代に武家諸法度(天和令)に明文化されました。
問5 天皇が新穀を神々に供えて自分も食べることで、収穫を感謝する祭祀を新嘗祭といいます。そのうち、天皇が即位して初めて行うものが大嘗祭です。
問8 閑院宮家は東山天皇の皇子を独立させるために新井白石が創立した宮家です。
問9 元禄小判は金の含有量が慶長小判の6割ほどしかありませんでした。正徳小判は金含有量を慶長小判と同じぐらいにしたというわけです。
ポイントのまとめ
・徳川家綱の政治
江戸幕府第4代将軍は徳川家綱であり、補佐していた会津藩主は保科正之である。
儒学などを奨励して人民を教化し、法律や制度を整えて統治をおこなう文治政治への転換をおこなう
背景:
改易された武士が主君を失って路頭に迷ったことによる牢人の増加・かぶき者による騒動
例:由井正雪の乱(慶安の変)
…兵学者の由井正雪が牢人を結集して幕府転覆を試みたが未遂となった事件
政策の内容:
①末期養子の禁を緩和
藩主が死亡前後に急に願い出た養子を50歳未満の大名・旗本に限って認めた
これにより、改易される武士を減らそうとした
②殉死の禁止
主君の死後に家臣があとを追って自殺することを禁じ、その跡継ぎに仕えることを義務づけた
これにより、主君と家臣の関係は代々続くことになり、下剋上の風潮は消滅
・徳川綱吉の政治
江戸幕府第5代将軍は徳川綱吉であり、当初の補佐役は大老の堀田正俊であったが、堀田の暗殺後は側用人の柳沢吉保が務めた
政策の内容:
①学問の奨励
孔子をまつる所として湯島聖堂を建て、林鳳岡(林信篤)を幕府の最高教育官である大学頭に任命
また、綱吉は朱子学を重視し、朱子学者木下順庵に学び、朱子学の考えで秩序を安定化させようとした
②朝廷との協調を重視
儀礼復興、天皇家の領地である禁裏御料を増加
③生類憐みの令を制定して動物愛護
戌年生まれだったため、とくに犬を極端に愛護したため、「犬公方」と呼ばれた
④服忌令の制定
近親者に死があったときの忌引きや喪に服する日数を定めた
これにより、死や血を忌み嫌う風潮が広がった
⑤元禄小判の発行
徳川家綱の時代に起きた明暦の大火の復興費用で幕府の財政がひっ迫
勘定吟味役の荻原重秀の意見により、貨幣の品質を下げた小判を鋳造し、物価上昇を招いた
・徳川家宣・家継の政治
江戸幕府第6代将軍は徳川家宣であり、側用人の間部詮房が補佐し、朱子学者の新井白石も政務を任された
家宣の死後、第7代将軍徳川家継が3歳で就いたので、新井白石が政務をおこなった
(この新井白石が展開した政治を正徳の治という)
政策の内容:
①天皇家との関係を強化
閑院宮家の創設、将軍と皇女の婚約
将軍職の権威を高めることがねらい
②通信使の待遇の簡素化
あわせて、朝鮮からの国書に記す将軍の称号を「日本国大君」から「日本国王」に変更させた
経費削減と将軍職の権威を高めることがねらい
③生類憐みの令の廃止
④正徳小判の発行
元禄小判の前であった、もとの慶長小判と同じ品質の小判に戻した
物価上昇をおさえるのがねらい
⑤海舶互市新例(長崎新令)の制定
清船は年間30隻、オランダ船は年間2隻に制限
金銀が長崎貿易で大量流出したため、金銀の海外流出を防止するのが目的
・諸藩の取り組み
国内における戦乱終息により、いろいろな藩で藩政の安定や藩主の権力強化が図られた
いくつかの藩では儒学者や朱子学者を登用して改革が試みられた
- 岡山藩(藩主:池田光政)…
陽明学者の熊沢蕃山による花畠教場の設置
郷学である閑谷学校の設置 - 加賀藩(藩主:前田綱紀)…
朱子学者の木下順庵を招く - 水戸藩(藩主:徳川光圀)…
明から亡命した儒学者の朱舜水を招く
江戸に彰考館を設置して『大日本史』を編纂