この問題でおさえておきたいこと
どこの国の船(人)が日本のどこに接近し、幕府はどう対応したのかをおさえよう!
解答
問1 ③ 問2 ② 問3 ①
解説
問1 ①:最上徳内は蝦夷地などを探検したことはありますが、シベリア方面まで出向いて探検したという事実はありません。
②:ラクスマンは高田屋嘉兵衛ではなく、大黒屋光太夫をともなって来航しました。
③:伊能忠敬は幕府の命を受けて蝦夷地をはじめとした全国沿岸を測量し、『大日本沿海輿地全図』とよばれる日本全図の作成にあたりました。よって、この文が正しいです。
④:②の解説にもあるとおり、大黒屋光太夫をともなって来航したのはラクスマンです。また、レザノフは根室ではなく長崎に来航しました。
問2 フェートン号など列強の船が侵入するようになり、それによる密貿易などが増えると幕府は異国船打払令(無二念打払令)を出して外国船撃退を指示するようになります。ところが、アヘン戦争での清の敗北に衝撃を受け、幕府は態度を軟化させて薪水給与令を出しました。その歴史の流れを理解しているかがこの問題のポイントです。
問3 X:「ポイントのまとめ」にあるとおり、ラクスマンは根室に来航して日本に通商を求めました。送り届けた漂流民は大黒屋光太夫のことです。幕府は通商の求めを拒否し、ラクスマンをロシアに帰しました。
Y:「ポイントのまとめ」にあるとおり、ゴローウニンはロシア軍艦艦長であり、捕らえられた場所も国後島ですから、この文も正しいです。
ポイントのまとめ
17世紀後半 ロシア船が通商を求めて蝦夷地に来航
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幕府の対応:北方に対して警戒
1.工藤平助が『赤蝦夷風説考』を幕府に献上
2.最上徳内を蝦夷地に派遣して調査
1792年 ロシアからラクスマンが根室に来航、漂流民の大黒屋光太夫を届けて通商を求める
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幕府の対応:長崎以外で通商を行っていないことを理由に拒否、長崎入港許可証を与えてラクスマンを帰す
1804年 ロシアからレザノフが長崎に来航
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幕府の対応:鎖国を理由に通商を拒否
※ロシアからの来航が増えたことを受けて、幕府は北方の探検を強化しています。次の2つの業績は特に重要です。
1.近藤重蔵が千島列島の択捉島までを探検(これが現在のロシアとの国境問題にまで関わる)
2.間宮林蔵が樺太を探検
1808年 フェートン号事件
イギリス船がオランダ船を追って長崎に侵入し、燃料や食糧を要求
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幕府の対応:フェートン号はじめイギリス船に当初は燃料や食糧を渡して帰国してもらった
→やがて方針変更し、1825年に異国船打払令(無二念打払令)を出して外国船撃退を指示
1811年 ゴローウニン事件
日本側がロシア軍艦艦長のゴローウニンが国後島に上陸して捕らえ、ロシア側は報復として高田屋嘉兵衛を捕らえて外交問題に発展
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幕府の対応:日露双方が監禁した人を釈放して解決
1837年 モリソン号事件
漂流民送還と通商交渉のために来たアメリカ商船を、異国船打払令にもとづき、浦賀と薩摩山川で撃退
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幕府の対応:蛮社の獄
『慎機論』を著した渡辺崋山や『戊戌夢物語』を著した高野長英など、幕府の対応を批判した学者を弾圧
1840年 アヘン戦争
イギリスと清が戦争をし、清が敗北
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幕府の対応:清の敗北が衝撃となり、日本の態度が軟化
→薪水給与令を出し、燃料や水を与えておとなしく帰ってもらう方針に