この問題でおさえておきたいこと
各事件で藤原氏がどの他氏を排斥していくことで摂関政治は展開したのか、藤原氏の誰が何という天皇と結びついていたかの2点を中心におさえよう!
解答
イ)A ロ)D ハ)D ニ)B
ホ)B ヘ)D ト)D チ)C
リ)B ヌ)A ル)C ヲ)C
解説
年号についての判断はかなり難しいと思いますが、あまり見たことがないもの、違和感を感じるものは誤りとみなす方法をとるといいかもしれません。誤りのものを中心に解説していきます。
(1) 桓武天皇は平安京への遷都をした天皇で、嵯峨天皇は桓武天皇の次に即位した平城天皇から譲位された天皇です。よって、これは正しいです。
(3) 冬継の「継」の字が誤りです。冬嗣が正しいです。
(4) 承和の変が起きたのは842年です。
(5) 丞和の変の「丞」の字が誤りです。承和の変が正しいです。
(6) 承和の変で排除されたのは伴健岑です。伴善男が排除されたのは応天門の変です。
(8) 応天門の変が起きたのは866年です。
(10) 少し細かい内容になります。応天門の変で排斥されたのは、伴氏と紀氏という一族です。
(11) 基経が支援して即位となった天皇は光厳天皇ではなく光孝天皇です。
(12) 光孝天皇が即位したのは884年です。
(13) 勅書について抗議を受けたのは宇多天皇です。
(14) 阿衡の紛議が起きたのは887~888年の頃です。
(15) 阿諛の紛議の「諛」の字が誤りです。阿衡の紛議が正しいです。
(18) 菅原道真を左遷させようと策謀したのは藤原忠平ではなく藤原時平です。
(21) 安和の変が起きたのは969年です。
(23) 安和の変によって排斥された左大臣は源高明です。
(24) この安和の変によって藤原氏の他氏排斥が完成し、摂政・関白が常置されるようになり、摂関政治が確立されました。11世紀になると、藤原道長・頼通によって摂関政治は全盛期へと突入していきます。
ポイントのまとめ
藤原冬嗣(藤原北家の出身)の権勢
※藤原北家が外戚になるなど天皇の権威と結びついていくことで、この一族が勢力を伸ばしていきます
- 冬嗣の蔵人頭への就任
- 皇室と姻戚関係を結ぶ(娘を仁明天皇の后とするなど)
↓
藤原良房(冬嗣の子)の権勢
- 842年 承和の変
良房の密告により、伴健岑・橘逸勢らが配流される - 858年 清和天皇が即位
→天皇の外祖父として摂政(天皇がまだ幼いときに政務を代行する役職)を臣下ではじめてつとめる - 866年 応天門の変
伴大納言(=伴善男)が大極殿前の応天門に放火し、左大臣の源信にその罪を負わせようとしたとして配流
この決定にも良房が関与
↓
藤原基経(良房の養子)の権勢
- 884年 光孝天皇が即位(陽成天皇を廃して基経が擁立)
→光孝天皇は基経を関白(天皇の成人後に後見人として政務を補佐)に任命 - 887~888年 阿衡の紛議
関白をおかないという宇多天皇が即位した際の勅書に基経が抗議し、撤回させた事件
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基経の死去→摂関の停止
宇多天皇による天皇親政(寛平の治)を展開
基経の子の藤原時平への対抗として菅原道真を登用
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宇多天皇が譲位→醍醐天皇が即位
延喜の治といわれる親政を展開
時平の策謀により、菅原道真が大宰権帥に左遷(=他氏排斥が再び始まる)
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村上天皇が即位
天暦の治といわれる親政を展開
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冷泉天皇が即位
969年 安和の変
左大臣の源高明に謀反の疑いをかけ、藤原氏が失脚させる
→他氏排斥の完成、藤原氏北家の勢力は不動に