この問題でおさえておきたいこと
大化の改新以前の政治史を、蘇我氏が力を持っていたことを軸におさえよう!
解答
問1 ② 問2 ③ 問3 ④
解説
問2 ①:遣唐使ではなく、遣隋使が正しいです。6世紀末から7世紀前半の時代(推古朝前後の時代)では、唐はまだできていません。
②:官位相当の制ではなく冠位十二階が正しいです。官位相当の制は奈良時代にできたものです。
③:正しい文です。憲法十七条は聖徳太子が制定したもので、「和を以て貴しとなす」などの条文が書かれています。
④:『日本書紀』が編纂されたのは奈良時代です。
問3 Ⅰは643年、Ⅱは540年ごろ、Ⅲは587年のできごとです。ただし、このような年号を覚えていなくても、「大伴氏の失脚→蘇我・物部による支配から蘇我氏独裁への移行→聖徳太子の政治→蘇我氏独裁の復活→大化の改新」という流れを軸に理解していれば十分に解くことができます。おおまかな流れがつかめているかを試す、良い問題だといえます。
ポイントのまとめ
大伴金村が百済に任那4県を割譲→伽耶諸国の離反、新羅による伽耶支配が進行
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大伴金村が失脚、蘇我氏と物部氏による支配体制へ
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皇位継承問題で蘇我氏と物部氏が対立、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす
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蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺=蘇我氏の独裁体制の確立
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推古天皇を擁立
聖徳太子(厩戸皇子)が摂政として国事の決定権をゆだねられる
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政治改革の実行(実力者の蘇我馬子と協調しながら)
- 冠位十二階
(徳・仁・礼・信・義・智の6項目を大小に分けた12の位に分け、家柄でなく能力に応じて人材登用) - 憲法十七条の制定(日本最初の成文法)
皇室を中心とする政治理念を提示 - 『天皇記』『国記』の編集
天皇中心の歴史書の編集=天皇の権威高揚 - 小野妹子を遣隋使として派遣
隋との対等な外交をめざす
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聖徳太子(厩戸皇子)・推古天皇の死亡
馬子の子、蘇我蝦夷が舒明天皇を擁立し、専制
蝦夷の子、蘇我入鹿が山背大兄王(聖徳太子の子)を自殺させる
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大化の改新(乙巳の変)
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼす
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孝徳天皇の即位
中大兄皇子は皇太子に、中臣鎌足は内臣に就任