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この問題でおさえたいこと

豊臣秀吉は太閤検地・刀狩・朝鮮侵略をおこなった!
太閤検地と刀狩によって、農民と武士の身分はしっかり区別されていった!

解答
(1)イ   (2)朝鮮
(3)太閤検地   (4)ア
(5)刀狩   (6)千利休

解説

(1)「ポイントのまとめ」を参照してください。

(2)「ポイントのまとめ」にあるとおり、豊臣秀吉は2度にわたり朝鮮に出兵しました。1度目の文禄の役のときは、朝鮮の李舜臣が率いる水軍の抵抗により失敗します。2度目の慶長の役のときは秀吉が死んだため、朝鮮から撤退をしました。

(3)この太閤検地が実施されたことで、耕作者が特定され、年貢の義務が発生しました。これにより、古代からの荘園は完全に消滅しました。

(4)「ポイントのまとめ」にあるとおり、武士と農民の間で身分としての区別がはっきりしていったことを兵農分離といいます。

(5)「ポイントのまとめ」を参照してください。

(6)千利休は桃山文化を代表する人物で、侘び茶を大成した功績があります。大阪の堺にある商家の出身で、織田信長・豊臣秀吉に仕えました。最後は秀吉から自害を命じられました。

ポイントのまとめ

・豊臣秀吉が天下統一をするまでの流れ

本能寺の変で明智光秀が織田信長を討つ
その後、豊臣秀吉が山崎の戦いで明智光秀を倒す

信長の後継者として勢力を伸ばす

1590年 関東の北条氏を倒し、天下統一を達成

・豊臣秀吉の政策

1.太閤検地

年貢を確実に取るために、全国の土地の面積や土地のよしあし、耕作者を調べさせ、村ごとに検地帳をつくらせた。
また、統一された体積の京ますを使って石高(体積の単位)で収穫量をつかんだ。

結果:
農民は定められた年貢を武士に納めることになり、武士は石高に応じた軍役を果たす義務が発生した。

2.刀狩

武力による一揆を防ぎ、耕作に専念させるために、農民から刀ややり、鉄砲などの武器を取りあげた。

結果:
太閤検地と刀狩によって、武士と農民の区別がはっきりしていった(兵農分離)。

3.バテレン追放令

キリスト教の布教がスペインやポルトガルの侵略政策と結びついていると警戒したため、キリスト教宣教師の国外追放を命じた。

結果:
秀吉は南蛮貿易については奨励していたため、この命令は徹底されなかった。

4.朝鮮侵略

明を征服するための足がかりとする目的で朝鮮に出兵した。
文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度にわたって出兵したが、いずれも成功しなかった。

結果:
慶長の役のときに秀吉が死に、侵略も失敗したため、秀吉に仕える武将が弱体化した。