この問題でおさえたいこと
承久の乱により、幕府は六波羅探題を設置して朝廷を監視!
北条泰時は武士の慣習にもとづいて御成敗式目を制定!
解答
(1)北条義時
(2)承久の乱
(3)エ
(4)ウ
解説
(1)文章中の「私」は、「夫が幕府(=鎌倉幕府)を開いた」という内容から、源頼朝の妻である北条政子と考えられます。初代執権は政子の父である北条時政、2代執権は政子の弟である北条義時でした。
(2)下線部の「上皇」は後鳥羽上皇です。後鳥羽上皇が北条義時を討てという命令を発して兵を挙げたことで状況の乱が始まりました。
(3)「ポイントのまとめ」の説明にあるとおり、設置したのは六波羅探題です。イの京都守護に代わって京都に置かれました。
ちなみに、アの評定衆は、鎌倉幕府に置かれた、執権らと政治上の問題などについて話し合いをおこなった機関です。そして、ウの京都所司代は江戸幕府の機関です。
(4)アは江戸時代に定められた武家諸法度、イは聖徳太子が定めた十七条の憲法、エは江戸時代に定められた禁中並公家諸法度の説明です。
ポイントのまとめ
・源頼朝の死後の政治
源氏の将軍は3代で絶える
↓
源頼朝の妻、北条政子の一族である北条氏が執権という役職につく
北条氏が執権となって実権をにぎった政治を執権政治という
・執権政治の展開
1221年 承久の乱
後鳥羽上皇が幕府を倒して朝廷の勢力を回復しようと挙兵
↓
朝廷の軍が破られ、幕府側が勝利
↓
幕府は朝廷を監視するために京都に六波羅探題を設置
幕府の力は西日本にもおよぶように
↓
1232年 3代執権の北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定
武士の慣習にもとづいて制定し、裁判の基準などをまとめる
後々まで武士の法令の手本に