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この問題でおさえたいこと

天皇を中心とした国づくりがどのように進められたかという過程と、中国・朝鮮とのかかわりをポイントにおさえよう!

解答
(1)
① ウ
② 冠位十二階(冠位十二階の制、冠位十二階の制度でもOK)
③ 十七条の憲法
④ 小野妹子
⑤ 645
⑥ 中臣鎌足
⑦ 大宝律令
(2)
漢委奴国王
(3)
蘇我入鹿(または蘇我蝦夷)
(4)
白村江の戦い
(5)
壬申の乱
(6)
天武天皇

解説

(1)① 紀元前1世紀ころに、日本に小さな国が100余りあることを記述しているのは、漢書地理志です。ほかの歴史書については、日本についてのおもな記述はこのようなものがあります。

③ 十七条の憲法には、「和をもって貴しとなす」とあり、みんなで協力して政治にあたることが求められました。また、仏教を大事にすることも重視されました。

④ 小野妹子が隋の皇帝に渡した聖徳太子の手紙には、日本の天皇を「日出づる処の天子(=太陽が昇る方角の皇帝)」、隋の皇帝を「日没する処の天子(=太陽が沈む方角の皇帝)」とありました。

この書き方で日本と中国の対等な関係を求めたことを示しています。隋の皇帝は激怒しましたが、朝鮮の高句麗と戦争中だったため、日本との対立は避けました。

(2)57年に奴国王が漢に使いを送って金印を授かり、その金印に「漢委奴国王」と書かれています。それを記述している中国の歴史書が、(1)の解説でふれた後漢書東夷伝です。

(3)~(6)「ポイントのまとめ」を読んでください。

ポイントのまとめ

593年 聖徳太子推古天皇摂政(天皇が女性や子どもの場合に、天皇に代わって政治をおこなう役職)となる

豪族同士の権力争いをやめさせ、天皇を中心にまとまった国づくりをするため改革
蘇我馬子という有力豪族とともに改革を実施)

聖徳太子や推古天皇、蘇我馬子などの死

蘇我氏の権力が天皇を上回るように

645年 大化の改新
中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿親子をたおして、蘇我氏を滅ぼす
663年 白村江の戦い
日本が百済を助けるために、新羅と唐の連合軍と戦い、敗北した

中大兄皇子は即位して天智天皇
白村江の戦いで敗北し、国外進出をあきらめ、日本の国づくりに専念

天智天皇の死

672年 壬申の乱
天智天皇の弟である大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子が跡継ぎをめぐって争う

大海人皇子の勝利、天武天皇として即位
日本最古の貨幣である富本銭を発行

701年 大宝律令を制定
唐の制度にならって、天皇を中心とした政治体制がととのう