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この問題でおさえておきたいこと

比喩表現が何をたとえているのかをつかむには、前後に書かれたことの何を具体的にしているものか、どれに対応したものなのかを考える!

解答
問1
( 1a )…イ   ( 1b )…ウ
( 1c )…ア   ( 1d )…エ
問2

問3

問4(例)
価値観や当然としていることが地域によって異なること。(26字)
問5
4,5

解説

問1

( 1a )

「地球規模の通信網は私たちみんなを( 1a )隣人にした」という意味ですから、どんな隣人にしたのかを考えます。この段落では第1文に、移動が楽になって明日にはチベットにいるかもしれないということ、最後の文では情報技術がヒマラヤ山脈にまで及んでいることが書かれています。

つまり、世界のあらゆるところが身近になったことが書かれた段落ですので、その文脈に合うもので考えれば「実質的な(virtual)隣人」が適しています。

( 1b )

「私たちは、自分たちを案内してくれる( 1b )例を持っていない」という意味なので、どんな例を持っていないのかを考えましょう。この文より前の部分では、5年前は古代史のことであり、昨日は今日にとっての準備にならないということが書かれています。

つまり、少し前の過去のことでももはや参考にならないという内容が述べられているわけです。その内容からの流れを受けているわけですから、「案内してくれる以前の(previous)例」を持っていないというわけです。

( 1c )

「私たちは( 1c )季節の深くへ飛行機で行ける」という意味ですから、どんな季節かを考えないといけません。この文より前の部分では、21世紀(東京の繁華街のたとえ)から13世紀(ブータンのたとえ)まで1日以内で飛行機で行けるという内容が書かれています。

要するに、それほどかけ離れた場所まで簡単に行くことができるという内容のことを言いたいわけです。「逆の(opposite)季節の深くへ飛行機で行ける」とすれば、その言いたいことを伝えるのに適切ですね。

( 1d )

「( 1d )混乱というとても奇妙な感覚を伴う」という意味ですから、どんな混乱かを考えることとなります。この直後に、「体のように私たちの価値観は宙に浮く」とあります。「体のように」とありますから、「価値観」というのは「体」の対比としてセットにされているということになります。

この価値観についてのことが「( 1d )混乱というとても奇妙な感覚」の具体例ということになるので、これも「体」との対比の関係に位置づけることができます。なので、「精神的な(spiritual)混乱」というのが適切となるわけです。

問2

下線部の意味は「道の曲がり角を数えることなく」という意味です。もちろん、文字どおり曲がり角の数の話をしているわけではなく、これは比喩表現を使ってのたとえです。「道の曲がり角を数えることなく」とあるので、何かを「しない」ということを述べていてそれをたとえていると考えることができます。

さらに、下線部の前には「未来へと速度を上げて進む」とありますが、「速度を上げて進む」ということは、現在もすでにそのような状況になってきているということです。よって、現在がどういう状況なのかを説明している部分を探せば、それをヒントに何をたとえているかをつかむことができるはずです。

探してみると、同じ段落の最初の文にて、国境など関係なく世界の文化を手軽に楽しめる内容のことが書かれてあります。この状況が加速するということになるということになりますが、その文の後半でwe fail sometimes to considerとあります。

fail to ~は「~しない」という意味なので、下線部がたとえている内容はこれと判断することができるでしょう。we fail sometimes to以降の部分は、自分たちがどこに向かっていて何を失っているのか考えないということが書かれています。このことに一番近い選択肢はウですね。

問3

「私たちみんなが( 1b )旅行者だ」という意味なので、どんな旅行者かを考えるわけですが、この直後に21世紀から13世紀へと旅行できるという内容が書かれています。現在から過去へと時間を超えての旅行ということになるので、timeが適切でしょう。

ちなみに、この「時間旅行」というのも、もちろん比喩です。さっきの問1でもふれましたが、カッコの中にて「東京の繁華街」「中世の様式で維持されているブータン」と補足がされていますから、それぞれの世紀はこの場所のことを暗示していたというわけですね。

問4

下線部を含む文のコロンまでの部分は「空間における距離が縮まることで、より重大な今なお残る距離が見えなくなっている」という意味です。「より重要な残り続けている距離」とは何か考えるわけですが、それを具体的に言っている部分を考えましょう。

コロンの直後に、「ベイルートから北京へわたりそしてボゴタまで連日で行く」という内容が書かれています。この部分が「空間における距離が縮まること(the shrinking of distances in space)」を具体例だといえます。

ということは、この近くに下線部のことを具体的にしたことが書かれているはずです。読み進めていくと、「価値観や当然としていることの違いを軽視する(underestimate the differences in value and assumption)」と書かれています。「距離が見えなくなっている」と意味をとらえましたが、これとちょうど似た言い回しになっていますね?

つまり、「より重大な今なお残る距離」とは「価値観や当然としていることの違い」ということになります。この文の後に「村の広場で正しいとされていることは地球村のすみずみにまで行き渡ることはない」とあり、これも「価値観や当然としていることの違い」についての比喩ですが、この比喩とも合致します。

問5

1.「地球規模の通信網は私たちを世界中の他人と親密にしてくれてはいません。」

( 1a )を考えたときにもふれたとおり、第1段落にて、地球規模の通信網が世界のあらゆるところを身近にして寛容を教えてくれたことが書かれているので、この文は誤りです。

2.「国境がない経済のこの時代で、家にいることで世界の文化を鑑賞するということはできません。」

第2段落の最初の文に、「リビングルームで世界の文化を楽しむことができるときに」ということがあり、これと矛盾するので、この文も誤りです。

3.「現代という時代では、5年は長い期間ではありません。」

第3段落の2文目に、「5年前は古代史である」とあります。つまり、それほど長い時間が経った昔のこととなってしまっているということなので、この文も誤りです。

4.「移動性のこの新しい時代に、根無し草の人々がより多くいます。」

第1段落や第2段落の前半にて、移動性によって世界のいろいろな事柄が身近になったことが書かれています。そして第2段落の最後の文に「今始まろうとしている根無し草の時代にて」という記述もあるので、この文は正しいとみなすことができます。

5.「今、東京に住んでいる人々は24時間以内にブータンへ旅行することができます。」

( 1c )を考えたときにもふれたとおり、21世紀(東京の繁華街)から13世紀(ブータン)まで1日以内で飛行機で行けるとありますから、この文は正しいです。

6.「さまざまな都市間の距離が縮まっているので、私たちはより明確に価値観の違いに気づきます。」

問4でも考えたとおり、第4段落にて「価値観や当然としていることの違いを軽視する」とあるので、この文は誤りです。

7.「テレビを見るとき、速く切り替わる画像たちは私たちに身のまわりの世界に対するじゅうぶんな理解を与えてくれます。」

第5段落の最初の文に、「読みこむにはあまりにも速く分類するにはあまりにも多様な画像たち」とあります。ということは、理解ができていないということになるので、この文も誤りです。

8.「最近では、地元の価値観が世界の他のほとんどの地域でもあてはまります。」

第4段落の最後の文に「村の広場で正しいとされていることは地球村のすみずみにまで行き渡ることはない」とありましたから、これを根拠に誤りとできます。


全文訳

 私たちみんなが、ほぼ毎日のように、世界の移動性を経験している。たとえば、明日にはチベットにいることもできるだろう。そして私たちの身体だけでなく精神も光の速さで旅行している。地球規模の通信網は私たちみんなを実質的な隣人にし、私たちに寛容性を教えてくれた。2世代前は、ネパールには道路はなかったが、今や情報スーパーハイウェイと英語の小道がヒマラヤ山脈の茶屋を通っている。

 しかし、私たちが国境のない経済の機会を享受し、世界の音楽の多様性を楽しみ、リビングルームで世界の文化を鑑賞することができるときでさえ、私たちは自分たちがどこに向かっていて何を失っているかもしれないのか考えていないときがある。哲学者のシモーヌ・ヴェーユは、「根を下ろすことは、おそらく人間の魂が必要としている最も重要で最も認められていないものである」と書いた。そして、今始まろうとしている根無し草の時代に、私たちは道の曲がり角を数えることなく未来へと速度を上げて進みがちである。

 もちろん、一つの問題はすべてのことがとても速く起こっているということである。5年前のことは今や古代史であり、昨日は今日の準備にほとんどならない。私たちには導いてくれる先例がないのだ。古典詩人のホメロスやウェルギリウスは旅人のことを詠んだが、それは正午前に11の時間帯を横断するような旅人ではない。そして遊牧民はいつも大地のあちこちを旅してきたが、それは徒歩で季節と伝統のリズムに合わせてのことである。移動性の新しい時代はホームシックの新しい時代を意味している。それは私たちのうち、幸運にも家を持っている人にとっての話ではあるが。

 今や私たちみんなが時間旅行者であり、21世紀(たとえば東京の繁華街)から13世紀(服装や家屋、慣習が厳密な中世の様式で維持されているブータン)へ1日以内に飛行機で行くことができる。今夜には真逆の季節の真っただ中、または20年間合っていなかった家族の腕の中へと飛んでいくことができる。そして、空間における距離が縮まることで、私たちはより重大な今なお残る距離が見えなくなっているのかもしれない。たとえばベイルートから北京へ、さらにボゴタへと連日飛行機で行って、それぞれのところで同じサービスを受けることで、私たちは価値観や当然とされていることに違いがあることを軽視しているかもしれない。村の広場で正しいとされていることは、地球村のすみずみに浸透することはないのである。

 したがって、今日旅行することはテレビを見ること、チャンネルを次々に替えて、読みこむにはあまりに速く分類するにはあまりにも多様な画像たちを目にすることと同様である。そして明日旅行することは、近所や共同体や本来いるべきところというしっかりとした感覚がない私たちにとっては、精神的な混乱というより奇妙な感覚を伴うかもしれない。私たちの価値観は身体と同様、宙に浮いて失われていくかもしれない。私たちの移動の負担を支えることができるたった一つのものは、結局は静止しているというしっかりした感覚である。「美しいものを見つけるために世界中を旅するけれども、私たちはそれを携えなければならず、携えなければ見つからない」と哲学者のエマソンは書いたが、彼は旅行を「愚か者の楽園」とみなした。同じことは、目的地や本来いるべきところという感覚にもっとあてはまる。旅行するときに見つけるものは何であれ、私たちがずっと自分の内側に持っていたものにすぎないのだ。